番外編 ヘンリーの被弾
イリスと話をしようとアラーナ邸を訪ね、応接室に通されたのだが、肝心のイリスがなかなか出てこない。
まさか、また残念な休憩所とやらに注力しているのだろうか。
紅茶を飲みながら待っていると、イリスの侍女がやって来た。
「ヘンリー様、お待たせして申し訳ありませんでした」
「いや、それは良いよ。……イリスは?」
「お嬢様は、お休みになっています」
もう日も高い時間だというのに、まだ寝ているというのか。
だが、侍女の表情からすると、ただの怠惰な睡眠というわけではなさそうだ。
「……体調が悪いのか?」
最近のイリスはふらついていることが多かった。
何か理由はありそうだったが、結局イリスは教えてくれなかった。
あのふらつきが酷くなったのだろうか。
「もうだいぶ回復されましたが、お疲れになったのでしょう。今日はこのまま休ませていただきたいのです。ヘンリー様には申し訳ありませんが……」
「風邪か何かか?」
「いえ。眩暈が酷かったようですが、疲労によるものかと思われます」
「疲労?」
また残念な休憩所作りで徹夜でもしたのだろうか。
それにしても、寝込むほどの疲労だなんて、大丈夫だろうか。
「わかった。今日は帰るよ。……明日、早めに来ても良いかな」
休息の邪魔をするつもりはないが、やはり心配だ。
せめて一目会って様子を知りたかった。
「ありがとうございます。ヘンリー様でしたら、いつでもお待ちしております」
********
「ヘンリー。悪いんだけど、今日はこのまま帰ってちょうだい」
妙にかたくて開ききらない扉の向こうで、イリスは顔を背けている。
「……どういうことだ?」
「だから……もう休むから、お話は今度にして」
「イリス、なんでこっちを見ないんだ?」
ヘンリーの指摘に、イリスの肩が震える。
「……別に、何でもない」
何でもないなら、帰れなどと言わない。
何でもないなら、顔を背けない。
なら、何があったのか。
顔を見せないということは、怪我でもしたというのか。
一向に開かない扉を蹴破ると、イリスの元に急ぐ。
「――イリス、ちょっと顔を見せろ」
「や、やだ。来ないでよ、帰って」
手で顔を隠しているので、その手を掴む。
腕力でヘンリーにかなうはずもなく、あっさりとイリスの手は外され、向き合った。
「……何だ。怪我をしていたのかと思った。……良かった」
イリスの顔に傷はない。
そう言えば、最近は傷の化粧をしていることが多い。
こうして素顔を見るのも久しぶりだが、やはり綺麗な顔立ちだ。
輝く金の瞳に、ヘンリーは釘付けになった。
ところが、その瞳にどんどんと涙が浮かんでくる。
「え? イリス?」
「……離して。帰って」
涙をこぼしながら訴えられてうろたえるが、手は離さない。
離したら、どこかへ行ってしまうような気がした。
「どうしたんだ? 何があった?」
「腕が痛い。怖かったし。腕力でかなわないのが悔しいし。せっかく頑張ってたのに、残念じゃない状態を見られるし。……もう、やだ」
ぽろぽろと涙をこぼすイリスの頭を、そっと撫でる。
どうやら、イリスは勘違いをしているようだった。
普通のドレスよりも残念なドレスの方が良いと言ったと思っているらしい。
「……もういいから。今日は帰って」
イリスはヘンリーの胸を押しているが、これは庭から押し出そうとしているのだろうか。
ヘンリーの体はまったく動かないが、代わりに心は動く。
こうも非力だと、庇護欲が掻き立てられて仕方ないのだが、イリスはわかっているのだろうか。
「……それ、残念な方が良いっていう意味じゃない。残念なドレスでも何でも、イリスが良いっていう意味なんだけど」
どうやらだいぶ勘違いしているらしいイリスに説明をする。
「ええ? せっかく、頑張ったのに。家でも残念装備は大変だったのに」
「……それで、あんなにフラフラしてたのか?」
「一度ヘンリーもやってみるといいわよ。重くて暑くて苦しいんだから」
「それでも、残念で頑張ったの?」
「うん」
「それ、俺のためってこと?」
「え?」
「俺が残念な方が良いと言ったと思って、俺のために頑張ったの?」
「そうね」
ヘンリーのために。
ヘンリーが好きなものを。
……なんて殺し文句だ。
相手はイリスなのだから、わかって言っているとは限らない。
たぶん、わかっていない。
だが、嬉しくて、にやけてしまう。
ヘンリーは口元を手で覆って、にやつく顔をどうにか隠した。
「……イリスは、さ」
「何?」
「俺のこと、……好き?」
「うん」
――即答。
「――あー……」
ヘンリーはその場に崩れ落ちてしゃがみこむと、頭を抱えた。
プロポーズしたのはヘンリーだが、イリスは承諾した。
双方の家にも挨拶した。
ヘンリーに好意を持ってくれているのは、わかっている。
だが。
――これは、効いた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「……何? 俺は今、試されてるの?」
ここがアラーナ邸の庭で良かった。
人目のない部屋だったら、危なかった。
「ヘンリー? 大丈夫?」
身に迫った危険にまったく気付いていないイリスは、隣にしゃがみこんで目線を合わせ、首を傾げる。
ヘンリーの額に手を当てているところを見ると、体調を心配しているのだろう。
本当に、どうしてこうも見当外れで残念なのか。
おかげで、目が離せないではないか。
イリスをじっと見ると、ヘンリーは大きなため息をついた。
その手を取って一緒に立ち上がると、イリスの肩に手を置く。
「……これからは、無理な残念で体調を崩すようなことは禁止。いいか?」
「わかったわ」
「あと、もう少し警戒心を持って行動すること」
「え? ええ」
「それから、目を閉じて」
「うん?」
言われた通りにイリスが目を閉じる。
今言ったばかりなのに、何も警戒していないではないか。
思わず苦笑してしまう。
これでは、何をされても仕方ない。
ヘンリーはそっとイリスに口づけた。
「……え?」
イリスは目を開けると、きょとんとしてヘンリーを見つめている。
何をされたのか、わかっていないのかもしれない。
そんなところも愛しいのだから、自分でも重症だと思う。
「今はこれで我慢しておくよ、イリス。――俺だけの、『毒の鞘』」