俺だけの
「何だ、この扉。やけにかたいな」
蝶番が凍結した扉を、ヘンリーが揺らしている。
既にイリスの存在は知られてしまっているので、隠れるわけにもいかない。
ヘンリーには、このまま帰ってもらうしかなかった。
「ヘンリー。悪いんだけど、今日はこのまま帰ってちょうだい」
顔を背けながらイリスがお願いすると、扉を揺らす音が止まった。
わかってくれたのかとほっとすると、ヘンリーの低い声が響いた。
「……どういうことだ?」
「だから……もう休むから、お話は今度にして」
「イリス、なんでこっちを見ないんだ?」
鋭い指摘に、イリスの肩が震える。
たぶん、ヘンリーは気付いただろう。
でも、どうしようもなかった。
「……別に、何でもない」
顔を背けたままそう言うと、一瞬の沈黙の後、激しい音と共に扉が開いた。
どうやら扉を蹴破ったらしいヘンリーが、一直線にイリスの元にやってくる。
「――イリス、ちょっと顔を見せろ」
「や、やだ。来ないでよ、帰って」
手で顔を隠すが、ヘンリーに腕を掴まれる。
腕力でかなうはずもなく、あっさりとイリスの手は外され、ヘンリーと向き合った。
「……何だ。怪我をしていたのかと思った。……良かった」
険しい顔だったヘンリーが、息をついて安堵の表情に変わる。
そこでイリスが残念状態ではないことに気付いたらしく、じっと凝視される。
――せっかく、今まで頑張っていたのに。
悲しくて情けなくて、目に涙が浮かんできた。
「え? イリス?」
「……離して。帰って」
涙をこぼしながら訴えるが、うろたえながらもヘンリーは手を離さない。
「どうしたんだ? 何があった?」
優しく尋ねる声が、今はかえってつらい。
「腕が痛い。怖かったし。腕力でかなわないのが悔しいし。せっかく頑張ってたのに、残念じゃない状態を見られるし。……もう、やだ」
ぽろぽろと涙をこぼすイリスの頭を、ヘンリーがそっと撫でる。
「痛いのと怖いのは、悪かった。この間の件で怪我をしていたのかと思ったんだ。腕力は、イリスに負ける方があれだけど。……でも、残念じゃないって、何だ?」
「だって、そのままじゃ駄目なんでしょう? 残念が良いんでしょう?」
「……どういうことだ?」
「普通のドレスで夜会に行った時、その恰好じゃ駄目だって言ったじゃない。普通のドレスを着ている時は、黙っているか目を逸らすことが多いし。残念な私の方が良いって言ってたから。だから、頑張って残念でいたのに」
結局は、それすら上手くできなかった。
そういうところだけはしっかりと残念なのだから、自分が嫌になる。
涙を拭うと、イリスはため息をついた。
「……もういいから。今日は帰って」
ヘンリーの胸をグイグイと押すが、びくともしない。
令嬢ボディはどこまで非力なんだろう。
もう、こうなったら筋力トレーニングもするしかないのだろうか。
令嬢ボディに筋力がつくのはいつ頃になるのだろう。
途方もなく遠い未来を思って、情けなくてまた涙が出そうになる。
ヘンリーが帰らないなら、イリスがこの場を離れるしかない。
立ち去ろうとしたイリスの手を、ヘンリーが掴んだ。
「――待って。それは、誤解だ」
「何が?」
見上げると、ヘンリーの顔が心なしか赤い。
「……俺は、残念なイリスに先に会っている」
「そうね」
「だから、そっちに慣れてる」
「そうね」
ヘンリーが何を言いたいのか、よくわからない。
「素のイリスは……綺麗だから。つい、じっと見てしまう」
「え?」
「――だから、見惚れてしまうってこと」
「……はあ」
「素のイリスだと、この間の夜会のように他の男が寄ってくるから。……俺が、嫌だから。それで、駄目だな、って。イリスが駄目って意味じゃない」
「で、でも。残念な方が良いって」
「そんなこと、言ったか?」
「夜会で、女の子と話した後に言ってた」
「……それ、残念な方が良いっていう意味じゃない。残念なドレスでも何でも、イリスが良いっていう意味なんだけど」
「ええ? せっかく、頑張ったのに。家でも残念装備は大変だったのに」
「……それで、あんなにフラフラしてたのか?」
「一度ヘンリーもやってみるといいわよ。重くて暑くて苦しいんだから」
「それでも、残念で頑張ったの?」
「うん」
「それ、俺のためってこと?」
「え?」
「俺が残念な方が良いと言ったと思って、俺のために頑張ったの?」
「そうね」
ヘンリーは更に顔を赤らめて、口元を手で覆う。
「……イリスは、さ」
「何?」
「俺のこと、……好き?」
「うん」
「――あー……」
ヘンリーはその場に崩れ落ちてしゃがみこむと、頭を抱えている。
「どうしたの? 大丈夫?」
「……何? 俺は今、試されてるの?」
ヘンリーは何やら小声で呟いているが、よく聞き取れない。
「ヘンリー? 大丈夫?」
隣にしゃがんで目線を合わせると、イリスは首を傾げる。
顔は赤いし、急にしゃがみこむし、もしかすると体調が悪いのだろうか。
熱があるのかもしれないと、ヘンリーの額に手を当ててみる。
その様子をじっと見ると、ヘンリーは大きなため息をついた。
イリスの手を取って一緒に立ち上がると、ヘンリーはイリスの肩に手を置いた。
「……これからは、無理な残念で体調を崩すようなことは禁止。いいか?」
「わかったわ」
「あと、もう少し警戒心を持って行動すること」
「え? ええ」
「それから、目を閉じて」
「うん?」
言われた通りにイリスが目を閉じると、ヘンリーが笑った気配がした。
同時に、唇に何かが触れる。
「……え?」
目を開けると、ヘンリーが微笑んでいる。
「今はこれで我慢しておくよ、イリス。――俺だけの、『毒の鞘』」