肉の女神
「……大体、おまえにイリスを任せられない。誰なんだ、おまえ」
じろりと睨むヘンリーを全く意に介さない少年は、拳で胸を叩き、自信満々に答えた。
「では、イリスさんが散歩をする時には、僕が一緒に行きます!」
「質問に答えろよ」
「駄目です。散歩は、俺が行きます!」
会話がいまいち噛み合っていない。
クレトに反対されると、少年はしばし考えている。
「……だったら、仕立て屋の送迎くらいは任せてください」
「仕立て屋?」
「はい。僕、仕立て屋ミランダの甥です。ラウル・ガランと言います」
「……ええ?」
イリスの驚きに、少年はにこりと笑う。
「僕、学園で残念な恰好の女生徒が肉を並べているのが、ずっと気になっていたんです」
「……まあ、気になるわよね。確かに」
残念な恰好という時点で、相当気になると思う。
関わりたくはないだろうが。
「伯母さんの店でヤバい色の生地を発注したことがあるんですけど、それを使ってドレスを作ったのがイリスさんだと知って。しかも、それは毎日飽きもせずに肉を並べている子だと知って。どんどん気になっていったんです」
ミランダが言っていた妹の子供というのは、この少年のことだったのか。
店を手伝っていると言うから、てっきり女の子だとばかり思っていた。
「待って。ヤバい色の生地ってまさか」
「凄いギラギラした赤と緑の生地です。伯母さんと喧嘩したんで、腹いせに絶対いらなそうな生地を発注してやりました」
「やっぱり」
夏の夜会でドレスを仕立てた、ビビッドな生地か。
というか、腹いせに発注した絶対にいらなそうな生地とはどういうことだ。
それをふんだんに使ってドレスを仕立てたイリスの身になってほしい。
大変に残念である。
「……思うところはあるけれど、あなたは残念の恩人だわ。ありがとう」
イリスが手を握ってお礼を言うと、ラウルは頬を染めてうなずく。
「妙な恩義はどうでもいいから、離れろ、イリス」
「そうです、手を離してください、イリスさん」
「何を言ってるの。彼があの目に痛くて心休まらないビビッドな生地を、腹いせに発注してくれなければ、夏の夜会を乗り越えられなかったかもしれないのよ? 私のドレスは、あんなに残念にならなかったのかもしれないのよ?」
「……いいんじゃないか、それで」
「駄目よ。ヘンリーは私に死んでほしいの?」
「どれだけ話が飛躍するんだよ。何で、残念なドレスじゃないと死ぬんだよ。おまえは残念じゃないと生きていけないのか」
「残念じゃないと生きていけないんじゃなくて、残念で生き延びようとしたのよ! 残念な戦いを舐めないでちょうだい」
「何の戦いだよ。大体、イリスは何と戦っているって言うんだ」
「え」
予想外の質問に、言葉に詰まる。
まさか、『碧眼の乙女』という乙女ゲームのシナリオと戦っていました、と言うわけにはいかない。
「えー。……て、天の……神、的な?」
「はあ?」
イリスの返答に、ヘンリーが思い切り残念な眼差しを送ってくる。
それはそうだろう。
イリスだって、意味がわからない。
ところが、ラウルは何度もうなずいたかと思うと、イリスの手をぎゅっと握ってきた。
「そうだったんですね。わかります。――さすがは、僕の肉の女神」
「変な呼び方しないで」
「だから、おまえのじゃない」
「それより、手を離してください、手を!」
「僕はイリスさんが気になっていたんですけど、あんまりにも残念だったし、ヘンリー・モレノがいつもそばにいたので、近付く勇気が出ませんでした。舞踏会の前日に、肉を並べていないイリスさんを見かけて、ヘンリーもそばにいなかったので、思い切って声をかけたんです」
あんまりにも残念とはどういうことだ。
ちょっと嬉しいではないか。
「いつものように肉を並べてほしくて、三皿持って声をかけたんです。そこで、初めてイリスさんの顔を見て。――驚きました。額の傷以外は、輝くばかりの美貌じゃないですか。僕はそこで気付いたんです。この女性こそが、肉の女神なのだと!」
そういえば、見知らぬ男子生徒に肉をお供えされた気がする。
あれが、ラウルだったのか。
「……意味がわからないんだが」
眉を顰めるヘンリーに、ラウルが詰め寄る。
「ヘンリーはあれだけそばにいて、気付かなかったんですか? イリスさんが肉の皿を並べるのは、肉の女神の神聖な儀式です。肉は供物です」
「気付くか、そんなもの。……大体、あの肉はほとんど俺が食べていたんだぞ」
「そんな! ……ヘンリーも肉の神だったんですか?」
「そんなわけあるか」
「そうよ。ヘンリーは肉の神じゃなくて、面倒見の鬼よ」
「なるほど! 肉の女神が面倒見の鬼を調伏したわけですね!」
「俺まで妙な呼び方をするな」
「……これ、何の話なんですか?」
クレトの一言に、ラウルは咳払いをする。
「えー。ということで、舞踏会でドレスアップした美しく神々しい肉の女神に、僕も調伏されまして」
「何もしてないわよ。そもそも会ってないわよ」
「そうすると、ずっとそばにいるヘンリーに嫉妬するのが世の常です。俺はその日からヘンリーに嫌がらせを試みたんですが、どれも失敗で。思い余って襲撃してみたんですけど、もう、さっぱりで」
本当にヘンリーは日常で襲撃を受けていたようだ。
何をされたのかは知らないが、まったく通じなかったらしいことだけはイリスにもわかった。
「あんな野蛮な男のそばにいたら、肉の女神に悪影響だと思ったので、攫うことにしたんです。でも、もう大丈夫です。これからは僕達が協力して肉の女神を守りますからね!」
にっこりと笑うラウルを見て、ヘンリーは盛大なため息をついた。
「……こういうのがいるから、一人では出歩くな」
「……うん。わかったわ」