残念な休憩所
「……何だ、これ」
ヘンリーが呆気に取られて立ち尽くしている。
まず目に飛び込むのは、壁いっぱいに飛び散った赤紫色の飛沫。
その壁も、壁紙は所々破られ、だらりと垂れ下がっている。
壁自体も何か所か穴が開いており、穴から下の絨毯にかけて何かの染みが広がっている。
床に敷いてあったはずの絨毯は毛足がまだらに刈り込まれており、まっすぐに立っていられない。
その上に乗るソファーもまた、表面の皮が無残に剥げ落ちて中の綿が恥ずかしそうに見え隠れしている。
テーブルだったと思われる物体は、木枠と脚だけが残っており、カップ一つ置くのにも技術を要する。
「――残念な休憩所よ!」
笑顔のイリスを見るヘンリーの視線は冷たい。
懐かしき、残念なものを見る目だ。
「改装する予定だってお父様が言うから、その前にちょっといじってみたんだけど、どうかしら?」
「いや、どうって……」
「ソファーは、カロリーナが捨てる予定のものをもらってきたの」
「モレノ侯爵家のかよ!」
「壁紙を破いた後は穴を開けたかったんだけど、剣じゃ上手くできなくて。……魔法の鍛錬が役に立ったわ」
「これ、氷で穴を開けたのか。この染みは水のせいか」
「絨毯の刈り込みにも苦労したわ。人間って、まっすぐ刈りたくなるのね。欲望との戦いだったわ」
「そんな大仰な話じゃないだろう」
「壁紙の飛沫なんだけど」
「――ただの事件現場だな」
「そうよね! ――やっぱり赤一色よりも、黒と紫も入れた方が良いわよね!」
「そういうことじゃない」
「ただ、問題はこのテーブルだと人数分のカップを置けないの。お茶も飲めないなんて本格的に残念だけど、どう思う?」
「問題はそこじゃない」
ヘンリーは頭を抱えた。
「頑張ったのはわかった。わかったが、そもそも方向が間違っている。休憩所に残念の概念は必要ない」
「えー? だって、残念な休憩所って言うから」
「残念はイリスが言ったんだろう。普通の部屋で良い。というか、普通の部屋が良い」
突き放すような態度に、イリスは意気消沈する。
「……わかったわ。片付ける」
せっかく一生懸命考えて、夜なべして絨毯を刈り込んだのに。
何がいけなかったのだろう。
やはり、事件な休憩所になってしまったからだろうか。
もっとポップな色の飛沫なら良かったのかもしれない。
今度、明るくて発色の良い液体を探してみよう。
イリスは垂れ下がった壁紙をビリビリと剥がしながら、ため息をついた。
「……わかったよ。俺が悪かったよ」
「何?」
壁紙を破く手は止めずに、振り返る。
「頑張ってくれたのは感謝するから……そんな顔をするな」
残念な休憩所を却下されたのはイリスの方なのに、何故かヘンリーが辛そうだ。
イリスが口を開こうとした瞬間、扉が勢いよく開かれた。
「イリスさん、お久しぶりです! ……って、何この部屋? 何か事件でもあったんですか?」
黒髪に赤い瞳の少年が訝し気に辺りを見回している。
「クレト?」
「イリスさん!」
イリスが名前を呼ぶと、ぱっと笑顔になる。
尻尾をちぎれんばかりに振る犬のようだ、とイリスは思った。
「大きくなったわね。昔はイリスお姉ちゃんって呼んでくれたのに」
「それは、小さい頃でしょう。俺、もう十三歳ですよ」
そう言ってイリスのそばに駆け寄ったクレトは、すでにイリスと同じくらいの背丈だ。
「そう。早いわね。あっという間に大きくなるのね」
イリスの心境は、まさに親戚のおばちゃんが成長を喜ぶあれだ。
頭を撫でまわして、お小遣いでもあげたい気持ちだ。
「それよりも、婚約するって本当ですか?」
眉尻を下げて潤んだ瞳で尋ねられると、何だか本当に子犬のようだ。
「ええ。ちょうどここにいるから紹介するわ。ヘンリーよ」
背後のヘンリーに今気づいたらしく、一瞬驚いたクレトはヘンリーを凝視している。
「……ヘンリー・モレノだ。よろしく」
「クレト・ムヒカです。こちらこそ」
棒読みの自己紹介を終えると、クレトはすぐにイリスに向き直す。
「もう少し待っていてくれたら、俺がイリスさんを幸せにしてあげますよ」
にこりと笑うクレトにつられて、イリスも微笑む。
「昔からそんなこと言ってたわね。冗談ばかり言ってると、いざという時に信じてもらえなくなるわよ」
「冗談なんかじゃないんですけど」
「――紅茶をお持ちしました」
クレトの言葉を遮るようなタイミングで、ダリアがティーセットの乗ったワゴンを押して来た。
そうか。
最悪、ワゴンをテーブル代わりに使えば、この部屋でもお茶を楽しめるではないか。
……いや、だったらテーブルを普通にすればいいのか。
やはり、部屋は残念よりも普通の方が使い勝手が良い。
残念な休憩所のコンセプトを、根本から見直さなければいけないようだ。
「……せっかくだから、俺が淹れるよ」
ヘンリーはそう言うと、手際よく紅茶を淹れ始める。
「おいしいわ」
「それは、良かった」
紅茶を飲んだイリスが微笑むと、自身も紅茶に口をつける。
「前にも見たけど、何でヘンリーは紅茶を淹れられるの?」
イリスだってやろうと思えばできなくはない。
だが、おいしい紅茶を淹れるとなると話は変わってくる。
適当にティーポットに茶葉とお湯を入れても、この味と香りは出ない。
「教育の一環……かな。大抵のことはできるように仕込まれてる」
「それは、家の。ええと……アレ?」
モレノ侯爵家の家業に関係することなのだろうか。
「そう。アレ」
上手く言えなかったイリスが面白かったのか、ヘンリーは笑っている。
「……イリスさん。俺、今日は泊まっていきますから」
いつの間にか紅茶を飲み終えていたクレトが、カップをワゴンに戻す。
「そうなの? じゃあ、夕食は一緒に食べようね」
「はい!」
小さい頃はよくクレトも泊まりに来ていたし、一緒に食事をしたものだ。
何だか、懐かしい。
「……イリス。明日の夜会だけど」
「うん。待ってる。楽しみね」
普通のドレスで、普通のヘンリーと夜会に行くのは初めてだ。
ワゴンを下げるダリアが針のムシロが何とか呟いていたが、よく聞こえない。
もしかすると、残念な休憩所のアイデアかもしれない。
今度、聞いておこう。