番外編 ヘンリーの限界
「……この指輪、返そうか?」
イリスにそう言われた瞬間、ヘンリーの鼓動は一度停止した。
同時に、今まで我慢に我慢を重ねた何かが弾けた。
「送ってあげたいけど、急いで行かなきゃいけない所ができたんだ」
侍従のビクトルにイリスを送るよう指示すると、ヘンリーはすぐに屋敷を出た。
「……ということで、ルシオ殿下によるモレノ侯爵家への攻撃は明らかです。陛下のご判断をいただきたい」
ヘンリーが寝る間も呼吸する間も惜しんでそろえた証拠に、国王フィデルが目を通す。
「正面から急な謁見を申し込むなんて、珍しいな。何かあったのかい?」
フィデルの傍らに立つシーロから、イリスのことだろうという心の声が聞こえてくる。
「ありましたね」
目が据わったヘンリーに、シーロがたじろぐ。
「兄上、ヘンリーはそろそろ限界みたいだよ。さっさと決めてあげなよ」
「確かに、証拠は揃っている。となると、ルシオへの対応だが」
フィデルが口を開きかけた時に、扉が勢いよく叩かれた。
「――失礼いたします。ヘンリー様に急ぎご報告したいことがございます」
「許す、入れ」
フィデルに促されて入室したヘンリーの部下は素早く跪く。
「イリス様がアベル殿下の馬車に乗せられました。行先はルシオ殿下が所有する屋敷です」
ヘンリーの血の気が引いた。
引きすぎて、もはや体が熱くなってきた気さえする。
ヘンリー自身に攻撃をするのは、いい。
イリスに声をかけるのも、まあ許そう。
だが、これは駄目だ。
――イリスを害するというのなら、王族でも容赦はできない。
「ヘンリー、少し落ち着け。やばいのが漏れかけてるぞ」
シーロがなだめるが、これが落ち着いていられるものか。
イリスをお茶に誘ったわけではないのは明白だ。
何をするつもりか知らないが、何をしたとしても到底許せない。
体から『モレノの毒』の魔力がわずかに滲んでいるのが、自分でもわかった。
「……大丈夫ですよ。『毒』はこんなものじゃありませんから」
ヘンリーが笑うと、シーロの顔が引きつった。
シーロは『モレノの毒』について、詳しく知らないのだろう。
それを扱うヘンリーがどんな存在なのかも。
「イリスというのは?」
「ヘンリーの大切な人ですよ、兄上。『毒の鞘』になりうる女性です」
「『毒の鞘』に手を出したのか、ルシオは!」
驚愕の声を上げると、フィデルはため息と共に首を振った。
「すまない、ヘンリー。いや、モレノ侯爵家次期当主の『毒の鞘』に手を出して、謝罪だけでは終われない。ルシオへの処罰だが――『モレノの毒』の使用を許可する。……早く、行ってやれ」
フィデルの命に一礼し、ヘンリーは走り出した。
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床に押し倒され、首に剣を突き付けられたイリスの姿。
ルシオが剣を動かすと、刃の触れた首筋から血が滲みだした。
ヘンリーは何も言わずに、剣を床に放り投げた。
それは、攻撃を諦めたという意味ではない。
剣で許すのをやめた、ということだ。
「――『モレノの毒』を、知っているか?」
「……名前は聞いたことがある。だが、この距離で俺に毒は盛れないだろう。この女がいる以上、投げたり吹き付けるわけにもいかないだろうからな」
勝ち誇ったように、余裕の態度でルシオは答える。
『モレノの毒』を、ただの毒物と勘違いしているのだろう。
「通常、さすがに王族には使わないんだが。今回は特例だ。……モレノ侯爵家次期当主である俺の顔を立てて、陛下が使用許可を出した」
「……何の話だ」
フィデルに見放されたという話だ。
最悪、死んでも仕方ないという判断。
『モレノの毒』を国王が許可するというのは、そういうことだ。
ヘンリーが一歩、近付く。
その迫力に圧されたルシオは、イリスに向けた剣に力を入れる。
白い首に、一筋の赤い線が現れた。
それを見た瞬間、ヘンリーは笑った。
「――剣の方が、マシだったと思うぞ」
ヘンリーの視線が、まっすぐにルシオを捉える。
体の奥から呼び覚ましたものを、ルシオに向けて放つ。
――さあ、狂え。
次の瞬間、ルシオは後退り、剣を取り落とした。
絨毯の上に落ちた剣は鈍い音を立てて、転がっていく。
顔は恐怖に引きつり、何かをわめきながら、床をのたうち回っている。
「安心しろ。殺すつもりはない。腐っても、王族だからな。せいぜいひと月ほどだが――恐怖に狂って、生きろ」
「……ごめん、イリス。俺のせいで巻き込んでしまった」
イリスの首と頬には傷があるし、だいぶ怖い思いをしただろう。
モレノ侯爵家を狙った攻撃のとばっちりだ。
ヘンリーがそばにいて守れなかったのが悔やまれる。
よりによって行動の凍結中でなければ、もう少し何とかなったかもしれないのに。
ビクトルの言うように、もっとイリスに会っていれば良かった。
たとえ疑われても、嫌われても、イリスのそばにいれば良かった。
そうすれば、イリスだけは守れたかもしれない。
……だが、後悔など何の役にも立たない。
「ルシオ殿下が逆恨みの八つ当たりをしたんでしょう? ヘンリーが悪いわけじゃないわ。……それに、私の残念に付き合ってもらったせいで、ヘンリーの特別な存在だと誤解されていたみたいだし。こちらこそ、迷惑をかけてごめんなさい」
――特別だよ。
そう言いかけて、口を閉じる。
まだ、言えない。
言ってはいけない。
どうにもならなくて、ヘンリーはイリスを抱きしめた。
「……ヘンリー、どうしたの?」
イリスを抱く手が震えている。
「あと少しだけ、待っていて。全部、説明するから。その後に指輪を返すというなら、ちゃんと受け取るから」
ルシオのせいで、イリスを失うかもしれなかった恐怖はある。
だが、これから行動の凍結が解除されても、ヘンリーはイリスを失うかもしれないのだ。
「それはいいけど、ヘンリーは大丈夫? 顔色が悪いわ」
心配してくれるのか。
それだけで、ヘンリーの手に血が通っていく気がした。
「体は大丈夫。だけど、少し、甘えてもいい?」
「ええ、いいわよ」
当たり前のように言ってくれる気持ちが嬉しかった。
「それで、どこに行くの?」
「最終報告。――陛下のところだ」
フィデルへの報告をもって、行動の凍結は解除される。
あとは、イリス次第だ。