番外編 ビクトルの懇願
「……イリス様が、夜会に出掛けたようです」
イリス・アラーナ伯爵令嬢の監視をしている者からの報告を伝えると、ビクトルの主人は石のように固まった。
「――は? 俺には何も話が来ていないぞ」
「それはそうでしょう。プロポーズをうやむやにした上に、ろくに会っていない男にわざわざ言う必要性がありません」
ビクトルの正しすぎる指摘に、ヘンリーはもう一度固まった。
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ヘンリーが舞踏会でイリスにプロポーズしたと聞いた時には、驚いた。
嬉しいやら恥ずかしいやら不思議な感覚だったが、ヘンリーの幸せそうな様子を見てビクトルも心が温かくなったというのに。
――まさか、返事をもらっていないとは夢にも思わなかった。
そんな時に、ヘンリーが襲われた。
相手は剣を持った数人の男。
一回だけというなら、珍しくないことだ。
モレノ侯爵家は特殊な家業なので、逆恨みや妬みの対象になることも多い。
ところが、それから数日連続でヘンリーは襲われた。
これは間違いなくモレノ侯爵家への攻撃だろうということで、当主であるモレノ侯爵は対応に乗り出した。
初回の襲撃の時点で、婚約等に関するすべての行動の凍結が発動していた。
ヘンリーもビクトルも、思わず呻いた。
タイミングとしては、この上ないほど最悪だった。
いっそ、ただの恋人という段階だったなら、忙しくて会えないという体で距離を置き、その間に問題の解決を図ることもできたかもしれない。
事実、行動の凍結というのはそこまで厳格なしきたりではなくなっていた。
発動したからと言って相手に毎日会いに行き、ろくに返答ができない様子を見せつける必要はない。
大体の場合はちょっと連絡がつかないという不信感程度で終わる。
それを乗り越えられれば十分という扱いだ。
しかも、プロポーズの返事をもらっていればモレノについて事前に説明ができる。
多少の言動や行動の変化は、モレノの事情だろうと察することができるのだ。
だが、ヘンリーはイリスにプロポーズした直後だった。
どうしたって、その答えを聞くことになる。
聞かない方がおかしい。
だが、イリスが承諾するにしても断るにしても、ヘンリーはそれに対して答えることができない。
プロポーズをしておきながら、返事をしてもはっきり答えず、それ以上何も言わない男。
こんな相手に、不信感が芽生えないはずがない。
ヘンリーのタイミングは最悪の部類だった。
しかも、問題というのがヘンリー自身を狙う攻撃であり、とばっちりでイリスまで狙われかねないという状態。
更に、疑わしいのは王弟なので、手を出すには国王の許可が必要だ。
そう簡単には解決しそうにない問題も、最悪に近いものだった。
どのタイミングで発動するか、問題はどの程度で解決するか。
すべて、運次第。
それはわかっている。
わかっているからこそ、ヘンリーは従った。
だが、ヘンリーは更にイリスと距離を取り始めた。
ビクトルは主人のこの行動に反対だった。
「本当に、何でさっさと返事をもらっておかなかったんですか。そうすれば、こんな面倒なことにならなかったのでは?」
「イリスは完全に混乱していたんだから、仕方ないだろう」
「大体、何でプロポーズ前に旦那様に報告してるんですか。馬鹿なんですか」
「縁談を持ち掛けられたから、断るときに話したんだ」
「だったら、せめて行動の凍結が終了してからプロポーズしてくださいよ。馬鹿なんですか」
「舞踏会でシーロ殿下にお膳立てされたんだよ。勢いだよ。仕方ないだろう」
「それなら返事までもらってきてくださいよ。本当に馬鹿なんですか」
「おまえ、ちょっと馬鹿馬鹿言い過ぎじゃないか」
「――馬鹿な主人に馬鹿と言って何がいけませんか!」
ビクトルは興奮のあまり拳を握りしめた。
「……だから、プロポーズには触れられなくても、イリス様を不安にさせないように会うべきだと申し上げました」
「でも、会って話したら、どうしたってその話になるだろう。何も言えない以上、回避する方が安全だ」
「ですが、プロポーズに触れない上に本人も離れたのでは、完全に気持ちがなくなったと思われかねません。危険です」
「それは……」
ヘンリーが押し黙る。
勿論、ヘンリー自身もそんなことはわかっているのだろう。
それでもイリスに会えない理由があるとすれば。
「――つまり、イリス様に嫌われるのが怖いのですね?」
ヘンリーはビクトルを見ると何かを言いかけ、やがて、肩を落とした。
「……そうだよ」
そう呟くと、大きなため息をついた。
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「残念な夜会と言うらしいのですが、ここにルシオ殿下が参加するという噂があります。おそらく、イリス様との接触を図るものと思われます」
ヘンリーに執拗な攻撃を加えてきたのが、このルシオだ。
しばらくはヘンリーを狙っていたのだが、ヘンリーは強い。
一流と言って差し支えない剣の腕前なので、そう簡単には後れを取ることはない。
ルシオも効果のない襲撃を諦めたのか、狙いをヘンリー自身から彼の大事なものへと移し始めていた。
「……なら、急いで支度するぞ」
「舞踏会でヘンリー様がパートナーとして参加したので、目をつけられたのでしょう。ここでヘンリー様が行けば、イリス様が特別だと認めることになります。やめておいたほうがよろしいかと」
「だが、俺自身への攻撃は止まっている。イリスを狙うのは明白だ。わかっていて放置はできない」
そう言ってヘンリーは急いで部屋を飛び出していく。
「まあ、そうなんだけど。……結局は、ただの嫉妬だよなあ」
未だにまともにイリスに会ったことのないビクトルからすれば、ヘンリーから伝え聞く残念な御令嬢をそこまで案じているわけではない。
だが、残念でも、令嬢。
腐っても、主人の想い人。
ヘンリーがあれほど大事にしてるのだから、ビクトルも手助けをしないわけにはいかない。
ビクトルは盛大にため息をついた。
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「――お待ちください!」
屋敷にイリスが来ていると聞いて、ビクトルは走った。
イリスが会いに来た相手は、ヘンリーではなくカロリーナだ。
カロリーナが留守の今、すぐに帰ってしまうだろう。
だが、モレノの屋敷なら安全だ。
ヘンリーも、少しは落ち着いて話せるだろう。
ビクトルは最近の主人の様子を見ていられなかった。
「イリスの右手に指輪が移動した」と話すヘンリーの落ち込みようは凄かった。
魂を抜かれたようというのは、きっとああいう状態を言うのだろう。
幸か不幸かヘンリーの魂には伸縮性の良い丈夫な紐がついているようで、モレノの仕事をこなすときにはちゃんと体に戻ってくる。
てきぱきと仕事をこなす姿に、ビクトルはかえって哀愁を感じた。
だから、イリスとちゃんと会っていれば、もう少し何とかなっただろうに。
歯がゆさで、ビクトルは胃が痛くなる。
先日、カロリーナにそっと胃薬を渡され「穴が開く前に解決してちょうだい」と言われた。
あの分では、カロリーナもまた、胃粘膜が荒れ地と化しているのだろう。
「私、ヘンリー様の侍従のビクトルと申します。どうか、もう少しだけお待ちください」
ありったけの速度でイリスの所に向かうと、ビクトルはそのまま頭を下げた。
初めて正面から見たイリスは、とても綺麗な少女だった。
黒髪は艶めいて、瞳は金色に輝いている。
カロリーナで見慣れた色合いなのに、印象がまったく違う。
華奢な肢体と相まって、不思議な魅力を感じる。
ヘンリーがあれほど大事にして、執着しているのもうなずけた。
ヘンリーは夜会の時に「両手に肉」とか「頭に蜂の巣」とか言っていたような気がしたが、見る限り頭がおかしいわけではなさそうだ。
何かの事情があるのかもしれないし、変わった趣味の持ち主なのかもしれない。
何にしても、ヘンリーは彼女に嫌われるのが怖くて距離を取ったのだ。
だがそれでは、イリスの気持ちはどうなるのか、わかっていない。
そういうところは、まだ子供なのだ。
ヘンリーがイリスを大事に想っているように、イリスだってヘンリーを想っているかもしれないのに。
そばにいなければ失われるものが、世の中にはあるのに。
あの馬鹿は、わかっていないのだ。
残念な趣味でも、馬鹿なお子様でも、ビクトルにとっては無二の存在。
ヘンリーには、幸せになってほしい。
だから、ビクトルはイリスに懇願した。
「もう少しで、ヘンリー様が到着します。どうか、会ってやってください! あの馬鹿に!」