番外編 カロリーナの胃痛
「イリス! 久しぶりね!」
三年ぶりに会う友人を、カロリーナは思いきり抱きしめた。
イリス・アラーナは『碧眼の乙女』四作目の悪役令嬢として、投獄からの死亡という過酷な運命を乗り越えたところだ。
隣国にいて手紙でしか様子を知ることができなかったカロリーナにとって、特にここ数ヶ月は胃が痛い日々だった。
最終的に、いつ誰に襲われてもおかしくない事態になったかもしれないと知った時は、冷や汗が出た。
モレノ侯爵家の技術の粋を集めて短剣を作り、イリスに届けてもらったが、技術とイリスの魔力が裏目に出て上手く使えなかったらしい。
残念ではあったが、イリスが無事ならそれで良かった。
「それにしても、相変わらず可愛いわね。そのドレスも似合ってるわ。……あら、胸がちょっと大きくなってない?」
そう言うと、カロリーナはイリスの胸をポンポンと触る。
日本の女子でよくあるノリだが、カロリーナはあえてやっていた。
シーロからの手紙によると、弟のヘンリーはイリスのことが気になっているらしい。
自分の瞳の色と同じ紫色の石がついた指輪を贈ったと言うのだから、シーロの気のせいではないだろう。
魔力制御と増幅の効果と言っていたが、だったらわざわざ紫色の石を選ぶ必要がない。
『モレノの毒』を継ぐヘンリーは、自身の立場をわきまえているから、遊びで贈ったとも思えない。
つまりは、シーロの見立て通りなのだろう。
大事な友人と可愛い弟がそんなことになるとは思わなかったけれど、悪い気はしない。
ついでに、楽しいのでちょっとからかいたい。
断崖絶壁がそびえる不毛の地のカロリーナと違って、イリスの胸部は豊饒の大地。
女のカロリーナでも触ってみたいというのもあった。
だが、驚くなり、照れるなり、羨ましがるなりと何らかの反応をするかと思えば、ヘンリーは会場の一点をじっと見ている。
視線を逸らしたわけではないという事は、すぐにわかった。
たぶん、モレノの仕事に関わる何かがあるのだろう。
ヘンリーは、既に次期当主として、モレノ侯爵家の仕事を任されていた。
「どうしたの、カロリーナ」
「……ううん。何でもないわ」
視線の先に王族がいるのは気になったが、カロリーナが口を出す話ではない。
弟の反応を楽しめなかったのは残念だったが、これからいくらでも二人に会えるのだから問題ない。
三年ぶりに故郷に帰ったカロリーナは、まだ浮かれていたのだ。
「……それで、イリスはどうなの?」
カロリーナはイリスと共に馬車に乗っていた。
疲れたから帰ると言うイリスに便乗した形だ。
シーロからこっそりと「一緒に帰ってあげて」と言われたので、何か理由があるのだろう。
「どうって?」
「ヘンリーと良い感じだって、シーロ様の手紙には書いてあったけど」
「舞踏会で、プロポーズっぽいものをされた気がするわ」
「まあ! ……って、何? その曖昧な表現は」
思ったよりもヘンリーが行動していたので、ちょっと驚く。
だが、どうも言い方がおかしい。
それに、イリスの表情にもまったく甘さがない。
「プロポーズっぽいことは言われたんだけど、返事はしていなくて。でも、その後全くその話には触れなくなったし。よそよそしいというか、話をしないというか。そもそも避けられているみたいだし」
イリスの説明に、カロリーナは自分の眉間に皺が寄っていくのがわかった。
「指輪も右手にしたけど、特に何も言わないし。……多分、あれは気のせいだったんだと思う。なかったことにしたいんじゃないかしら」
「何よそれ」
プロポーズをした相手を避けるとは何だ。
イリスがこうまで言うのだから、ここ数日の話ではないのだろう。
カロリーナは弟の行動に腹が立った。
男としても、モレノ侯爵家の次期当主としても、何て誠意のない対応なのだ。
ヘンリーはそんな人間ではないと思っていたのだが。
何も言わないなんて。
……何も言わない。
『行動の凍結か、一年の別離か。どちらかを選びなさい』
カロリーナの脳裏に一年ほど前の、父との会話がよみがえる。
シーロとの婚約を考えていると報告した時に、迫られた決断だ。
モレノ侯爵家は特殊な家だから、プロポーズの返事をもらうまではモレノのことを話してはいけない。
だがシーロは王族で、既にモレノを知っているので関係なかった。
だがもう一つ、相手がモレノの家業に耐えられるか、確認しなくてはいけないという決まりがある。
その方法が、行動の凍結か一年の別離だ。
一年の別離はその名の通り、一年間相手と離れる。
決して直接会えず、距離も数日では到着しないほど離れ、連絡は手紙のみ。
要は強制的な遠距離恋愛だ。
行動の凍結は、当主に報告した後に起きた問題の解決まで、婚約や婚儀の進行はすべて止める。
その事情は伝えられないし、明確な好意を伝えてもいけない。
要は、強制的な不信感の演出だ。
カロリーナは一年の別離を選んだ。
イリスのこともあったし、シーロは国の様子を知りたいだろうというのもあった。
何より、シーロに誤解されて嫌われるくらいなら、離れて寂しいのを我慢する方がマシだと思ったからだ。
「――ああ、もしかして。だから……」
きっと、ヘンリーは行動の凍結を選んだ。
ほとんどのモレノの人間はそちらを選ぶ。
既にモレノの仕事をしているなら、そちらしか選びようがないというのもある。
それに、さっさとプロポーズの返事をもらえばモレノの説明はできるし、運が良ければ数日で行動の凍結は解除されるからだ。
それが、よりによってプロポーズ直後に発動したというのか。
ヘンリーはプロポーズしたと言うが、返事を催促できない。
イリスが断ろうと、承諾しようと、それに返事もできない。
当然、婚約の話を進めることもできない。
そうなった事情を説明することもできない。
ついでに、明確な好意を伝えることすらできない。
そもそも、プロポーズの返事をしていないということは、モレノの説明がされていないということだ。
この状態では、不信感しか生まれないではないか。
あのヘンリーがモレノのしきたりを忘れていたとは思えないが、何故こんなややこしい事態になっているのか。
実際にヘンリーと同じタイミングで発動して、破局した話を聞いたことがある。
確か、祖父もかなり揉めたと言っていた。
本当に、なんでよりによってこのタイミングだったのだろう。
「なので、特に何もないわ」
イリスは淡々とカロリーナに告げる。
ヘンリーはプロポーズをなかったものにしたくて、イリスを避けていると思っているのだ。
怒るなり悲しむなりしているよりも、余程危険ではないのだろうか。
「イ、イリス。あの、詳しくはわからないけれど、ヘンリーの事を信じてあげて?」
「信じると言っても……」
確かに、何も言わずに避けられて、何を信じろというのか。
イリスの気持ちもわかるし、ヘンリーの事情もわかる。
何だか胃が痛くなってきた。
「約束の一年も過ぎるし、指輪も返した方がいいわよね」
――早くも、胃に穴が開きそうだ。
イリスは指輪の代金のことを気にしているが、そんなことはどうでも良い。
値段で言えば安くはないだろうが、ヘンリーが作りたくて作ったのだろうからどうでも良い。
イリスの生存を喜んだばかりなのに、このままではカロリーナが重体だ。
ヘンリーに至っては、既に瀕死ではないか。
気付いているのだろうか、あの弟は。
カロリーナはイリスの手をぎゅっと握ると、縋るように見上げる。
「ヘンリーは、イリスを大事にしてる。それは、信じてあげて」
カロリーナが言える精一杯の言葉は、それだけだった。