イリスがいれば
「……え。あれ、やっぱりプロポーズだったの?」
イリスの言葉に、ヘンリーはがっくりと肩を落とした。
「結婚してくれって、プロポーズ以外に何があるんだよ」
ヘンリーの言う事はもっともだ。
もっともなのだが、イリスにだって言い分がある。
「だって、その後返事も聞かないどころか、ろくに話もしてくれないし、避けられるし。あれは気の迷いで、なかったことにしたいんだなって思うじゃない」
後悔しているから、プロポーズについて話したくない。
そばにいたくないから、避ける。
そういうことなのだとイリスは解釈した。
だから、ヘンリーの望む通り、プロポーズはなかったことにしていたのだ。
「だから、行動の凍結のせいで返事は聞けないし、話を進めることもできなかったんだ」
「じゃあ、普通の話だけすればいいでしょ。何も避けなくても」
避けている間も、一言も話をしなかったわけではない。
イリスは一度もプロポーズについて話したことはなかったのだから、避ける必要はなかったのではないか。
「それは――」
ヘンリーは言葉に詰まると、息をついた。
「……プロポーズの返事をされても、俺は答えられない。断られても、何も言えない。受け入れられても、それに返事ができない。そんな状態じゃ、どっちにしても不信感が芽生える」
それはそうだ。
何を言っても返事がないのでは、不安になって当然だろう。
「話をして、まともに答えられない俺をイリスが見限るのが怖かった。だから、距離を置いたんだ」
ヘンリーはうつむく。
「その言い方じゃまるで、私のことが好きみたいよ?」
「……好きだから、プロポーズしたんだろうが」
「ええ!」
ヘンリーは再びがっくりと肩を落とした。
「一体、何だと思ってたんだよ……」
「だって。ろくに話もしてくれなくなったし。避けられるし」
「だから、それは……」
ヘンリーが何かを言いかけて、止まる。
それは、イリスの目から涙がこぼれ落ちるのと同時だった。
それまで一年間、ずっと一緒に行動をしていたヘンリー。
それが、急に話をせず、そばに寄らず、避けられるようになってしまった。
何だか、とてもつまらなかった。
何故だか、とてもつまらなかった。
思い出すほどに、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
「約束の一年は終わったし、もう嫌になったんだと思うじゃない」
「ごめん」
「迷惑かけてばっかりだったから、嫌になったんだと思うじゃない」
「ごめん、イリス」
ヘンリーはイリスの隣に移動すると、そっと抱きしめた。
「……寂しかったのに」
見上げてみれば、ヘンリーの口元は綻んでいる。
「何笑ってるのよ、酷い」
「ごめん、違うんだ。……嬉しくて」
「酷い……」
イリスは寂しいと言ったのに、それが面白いということか。
好きだとか言っておいて、なんて残念な扱いだろう。
残念を目指していたイリスだが、この残念はあまり嬉しくない。
「そうじゃない、そうじゃなくて。俺に会えないのが寂しいって思ってくれたんだろう? それが、嬉しくて」
ヘンリーはそう言ってイリスの頭を撫でる。
「俺も、寂しかったよ。それに、他の男がイリスに近付くのが嫌だった」
ヘンリーは手を止めると、イリスを正面から見つめる。
「イリス、俺と結婚してくれ。……俺は『モレノの毒』を継いでいるから、イリスに『毒の鞘』になってほしい」
紫色の瞳が、真剣な眼差しをイリスに向ける。
何度も見た色だけれど、今日はとても輝いて見える。
「それ、何なの?」
「『モレノの毒』は、精神に作用する特殊な魔法だ。使用する側だって疲弊する。それを包み込み、癒すという意味で、『モレノの毒』継承者の伴侶は『毒の鞘』と呼ばれている」
「ヘンリーの休憩所ってこと?」
「そういうこと」
「そう」
「……駄目か?」
ヘンリーが困ったようにイリスを覗き込む。
休憩所。
ヘンリーが癒され、休む場所。
それなら、イリスも手伝いたいと思えた。
「……残念な令嬢から、残念な休憩所に変わるのね」
「いや、残念である必要はないんだけど」
「――わかったわ。私、立派に残念な休憩所になるわ!」
拳を掲げたイリスを見て、ヘンリーは苦笑する。
「なら、このままアラーナ家で伯爵に挨拶するぞ」
「ええ、今から?」
「行動の凍結はこれで終わりだが、イリスが他の男にアプローチされるのを、俺が我慢できない」
「何それ。されたことないわよ。私は残念な令嬢だったのよ。残念を舐めないでよ」
「気付いていないなら、それでいい。行くぞ」
ヘンリーはそう言うと、御者に急ぐように告げる。
馬車の揺れが大きくなったが、今度は隣でヘンリーが支えてくれるので負担は少ない。
「待って、ところで、残念な休憩所ってどんなものだと思う? ソファーとかボロボロにすればいい? 壁紙は破くべき?」
過去に培った残念の数々を総動員して、イリスは思案する。
どうせ残念なら、とことん残念にしなければ。
ヘンリーは目を丸くすると、微笑んだ。
「――イリスがいれば、それで十分残念だよ」