『モレノの毒』
「――イリス!」
叫び声と共に、ヘンリーが部屋に飛び込んで来る。
床に押し倒され、首に剣を突き付けられたイリスの姿を見ると、一気にその表情が険しくなった。
「……イリスから、離れろ」
今までに聞いたことのない、低い声が響く。
「さすがに早いな、ヘンリー・モレノ。だが、まずは自分の心配をしたらどうだ?」
ルシオの声を合図に、部屋の中に多数の男が入ってくる。
全員が剣を持ち、それをヘンリーに向けている。
ヘンリーが腰の剣に手をかけた瞬間、男達が一斉に切りかかった。
――それは一方的で、そして優雅でさえあった。
男達の間をするりと潜り抜けながら剣を振るったヘンリーは、あっという間に全員を床に叩き伏せた。
イリスは勿論、ルシオとアベルも呆気に取られて、ただ見ているしかなかった。
こんなに強かったのなら、クララの時もイリスが男達を止める必要はなかったのかもしれない。
『カロリーナの弟……モレノの跡継ぎが一緒なら大丈夫だとは思いますが』
かつて、ベアトリスがそう言っていたのを思い出す。
ベアトリスは公爵令嬢。
彼女はモレノ侯爵家のことを知っていたのだろう。
そして、ヘンリーのことも。
「剣の腕前は一流と聞いてはいたが、偽りではないようだな。だが、運が悪いな。ちょうどここに碧眼の首飾りがある。これがどんなものか、おまえなら知っているだろう?」
ヘンリーはルシオが手にしたネックレスを見ると、眉を顰めた。
「……陛下に謁見して、正解だったな」
「何のことだ。剣を捨てろ、ヘンリー!」
ルシオはネックレスを見せつつ、イリスに突きつけた剣を動かす。
刃の触れた首筋から、血が滲みだす。
ヘンリーは何も言わずに、剣を床に放り投げた。
それを見たルシオとアベルは、にやりと笑う。
「――『モレノの毒』を、知っているか?」
「……名前は聞いたことがある。だが、この距離で俺に毒は盛れないだろう。この女がいる以上、投げつけたり吹き付けるわけにもいかないだろうからな」
勝ち誇ったように、余裕の態度でルシオは答える。
「通常、さすがに王族には使わないんだが。今回は特例だ。……モレノ侯爵家次期当主である俺の顔を立てて、陛下が使用許可を出した」
「……何の話だ」
ヘンリーが一歩、近付く。
その迫力に圧されたルシオは、イリスに向けた剣に力を入れる。
もしかすると、ルシオ自身は力を入れている意識はないのかもしれない。
首に触れる剣が微かに震えていた。
イリスの白い首に、一筋の赤い線が現れる。
それを見たヘンリーは、凄絶な冷たい笑みを浮かべた。
綺麗な笑顔だ。
見ているこちらが、恐怖を感じるほどに。
イリスの背筋をぞくりと寒気が走った。
「――剣の方が、マシだったと思うぞ」
ヘンリーの視線は、まっすぐにルシオを捉える。
今まで感じたことのない不思議な魔力が、ヘンリーから溢れてくるのがわかる。
紫色の瞳が一瞬、輝いたような気がした。
――次の瞬間、ルシオは後退り、剣を取り落とした。
絨毯の上に落ちた剣は鈍い音を立てて、転がっていく。
顔は恐怖に引きつり、何かをわめきながら、床をのたうち回る。
明らかにおかしいルシオの様子にも、ヘンリーは眉ひとつ動かさない。
「安心しろ。殺すつもりはない。腐っても、王族だからな。せいぜいひと月ほどだが――恐怖に狂って、生きろ」
突然の事態に、アベルは勿論、イリスもまた呆然としていた。
どうやらヘンリーが何かしたようだが、何が起こったのか全く分からない。
それに、あれは誰だろう。
冷たい瞳と声のあの少年は、イリスの知っている面倒見の鬼のヘンリーではない。
「『モレノの毒』は、毒物じゃない。モレノ侯爵家に引き継がれる魔法の一種だ。それを知っているのは、モレノ侯爵家の人間と、国王とその周囲。それから、『モレノの毒』を使われた人間だ」
ヘンリーがそう言ってアベルを見ると、固まっていたアベルが床に倒れる。
どうやら気を失ったらしく、口から泡まで吹いている。
「……だから、おまえのような小物の依頼は受けないと言ったんだ」
もう何が何だかさっぱり理解できず、イリスは床に転がったまま動けない。
ヘンリーは呆然とするイリスのそばに駆け寄ると、そっと抱き起こす。
素早くハンカチで止血をしながら、手の縄を解いた。
「他に、怪我は?」
心配そうに問いかける様子は、イリスのよく知るヘンリーそのもの。
だからこそ、かえって混乱する。
一体、さっきのは何だったのだろう。
「イリス?」
ヘンリーが問いかけているのが自分だと気付くのに、少し時間がかかった。
「だ、大丈夫」
紫色の瞳に見つめられ、慌てて答える。
床に叩きつけられてあちこち痛かったのだが、今見た光景が衝撃的過ぎて、痛みが飛んでいた。
縛られていた手首を見れば、くっきりと赤い痕が残っている。
令嬢ボディの皮膚は厚化粧には強いのに、こういう時にはか弱いようだ。
「……ごめん、イリス。俺のせいで巻き込んでしまった」
ヘンリーが、目を伏せて、苦しそうに謝罪をしてくる。
「ルシオ殿下が逆恨みの八つ当たりをしたんでしょう? ヘンリーが悪いわけじゃないわ。……それに、私の残念に付き合ってもらったせいで、ヘンリーの特別な存在だと誤解されていたみたいだし。こちらこそ、迷惑をかけてごめんなさい」
ヘンリーは何かを言おうと口を開きかけ、やめる。
しばしの逡巡の後、イリスをぎゅっと抱きしめた。
「……ヘンリー、どうしたの?」
イリスを抱く手が震えていた。
「あと少しだけ、待っていて。全部、説明するから。その後に指輪を返すというなら、ちゃんと受け取るから」
「それはいいけど、ヘンリーは大丈夫? 顔色が悪いわ」
さっき使った『モレノの毒』とかいう魔法は、ヘンリーに負担はないのか。
何だか顔色も悪ければ震えているのは、そのせいなのでは。
イリスが心配していると、ヘンリーは苦笑して腕を解いた。
「体は大丈夫。だけど、少し、甘えてもいい?」
「ええ、いいわよ」
面倒見の鬼が、珍しいことを言う。
今までの恩もあるし、イリスにできることなら叶えてあげたい。
「……じゃあ、イリスも一緒に来て」
「いいけど、殿下達はどうするの?」
「この連中は、このままで大丈夫。すぐにビクトルと警備兵が来る」
「それで、どこに行くの?」
首を傾げるイリスに、ヘンリーは微笑んだ。
「最終報告。――陛下のところだ」









