持っていて、待っていて
「……何で? 約束の一年は過ぎているし、ヘンリーの手を煩わせる必要はないんだけど」
イリスが首を傾げると、カロリーナはカップを掴んで紅茶を一気飲みした。
腰に手を当てて飲み干す様は、日本の銭湯で風呂上がりに牛乳を飲むイメージに近い。
侯爵令嬢のありえない行動に、イリスは目を丸くする。
「――ああ、私には無理だわ、これ。シーロ様が王族で良かった。本当に良かった。本当に本当に、良かった」
ぶつぶつと呟くカロリーナは、何やら苛立っているようだった。
「だ、大丈夫?」
イリスが恐る恐る尋ねると、カロリーナはイリスの手を握る。
「ヘンリーはね、ほら、あれよ。……面倒見が良いから! 王族相手に断るのは大変でしょう? だから、シーロ様と一緒に何とかしてくれるわ!」
ぶんぶんと手を振りながら説明されるが、何だかとってつけた感じがあるのは気のせいだろうか。
「そうか、面倒見。……なるほど」
それなら、確かに理解できる。
ヘンリーの面倒見の鬼っぷりは、イリスも身に染みてわかっていた。
「でも、王族相手にというなら、シーロ殿下の方が口を出せそうだけど」
わざわざヘンリーに知らせる必要はあるのだろうか。
「そ、それは」
「それに、私が既に婚約しているとか、婚約を考えている人がいるとかなら、断る理由にもなりそうだけど。大きな理由もないのに、何て断るのかしら」
まさか、「好みじゃない」とかストレートに言うつもりなのだろうか。
今後問題が起きないように、穏便な文句を使ってくれるといいのだが。
「イリス……」
カロリーナが何故か悲しそうにこちらを見ている。
「どうしたの、カロリーナ」
「……ヘンリーに任せて。信じてあげて」
「一年間お世話になった面倒見の鬼だし、人となりは信じてるわ。大丈夫よ」
きっとヘンリーなら、波風立てない上手い断り方をしてくれるだろう。
「そう」
何やら複雑そうなカロリーナは、そう言うとため息をついた。
結局、ルシオの打診は白紙になったらしい。
父は安堵の表情でイリスに伝えてきたが、何をどうしてそうなったのかは教えてくれなかった。
多分、父自身も知らないのだと思う。
そういえば、レイナルドの婚約を防いだ時も、そうだった。
よく考えると、不思議な話だ。
レイナルドの時はアコスタ侯爵家が絡んでいたが、モレノ侯爵家の力で何とかなるのは理解できる。
だが、今回は王族だ。
侯爵家の力で押し通すのには限界があるだろう。
一体、ヘンリーはどうやって婚約を止めたのだろう。
無理なことをしてはいないだろうか。
イリスは段々心配になってきた。
いくら面倒見の鬼でも、良い友達だからだとしても、そんな負担をかけてまで頑張ってほしくはなかった。
「申し訳ありません、イリス様。カロリーナ様は、ただいま留守でございます」
モレノ侯爵家の使用人にそう言われ、イリスは肩を落とす。
「そう。仕方ないわ。ありがとう」
カロリーナなら事の次第を知っているかと思い、モレノ侯爵家を訪ねてみた。
だが、いないものは仕方がない。
日を改めよう。
「――お待ちください!」
侯爵家の使用人らしからぬ速度でイリスの元に走ってきた青年は、そのままイリスに頭を下げる。
「私、ヘンリー様の侍従のビクトルと申します。どうか、もう少しだけお待ちください」
「はあ」
土下座でもしそうなあまりの勢いに、イリスは上手く返事ができない。
「もう少しで、ヘンリー様が到着します。どうか、会ってやってください! あの馬鹿に!」
「はあ」
侍従という割には主人を馬鹿呼ばわりしているのだが、いいのだろうか。
しかし、理由は不明だが、ヘンリーのために頭を下げているのだろう。
どうせ何の予定もないので、待つのは問題ない。
「わかったわ。待ちます」
イリスの返答に、ビクトルがほっと肩をなでおろした。
「――イリス?」
それほど間を置かずに、ヘンリーが駆け込んで来た。
ビクトルに劣らぬ俊足に、似た者主従なのかもしれないとイリスは思った。
「この屋敷なら大丈夫でしょう。少し、話をしたらいいですよ。例の件はとりあえず、後で」
ビクトルの言葉にヘンリーはうなずき、イリスを部屋に案内した。
「あの。忙しそうだし、邪魔になると申し訳ないから、帰ろうか?」
「邪魔じゃないから、申し訳ないとか考えなくていい」
ヘンリーはそう言って、イリスの前に紅茶を差し出す。
侯爵家の嫡男なのに、手慣れたものだった。
「それに、イリスに……会いたかった」
「え」
ヘンリーの微笑みに、思わず言葉を失う。
それではまるで、イリスのことを好きと言っているように聞こえるではないか。
何だかちょっと恥ずかしくなり、視線を逸らす。
でも、プロポーズはなかったことにしているんだから、これは単に友人に会えて嬉しいという事だろう。
紛らわしいことを言わないでほしい。
「……ルシオ殿下の婚約打診の件、ヘンリーが何とかしてくれたんでしょう? ありがとう」
気を取り直して、お世話になった礼を言う。
ヘンリーは微笑んだままうなずいている。
「でも、王族相手にどうしたの? 無理はしていない? 私のせいで、また迷惑をかけていないかしら」
「迷惑なら言うから、大丈夫。何かあれば、俺に言って」
『だから、申し訳ないとか考えなくていいんだよ。迷惑なら言うから、頼れって』
以前に言われた言葉と同じだ。
……なんだ。
ヘンリーは変わってなんかいない。
ちょっとよそよそしかったけど、あれはプロポーズの過ちのせいで気まずかっただけなのかもしれない。
友人として変わらない態度に、イリスは安堵した。
良い友人に恵まれているのだから、せめて負担をかけないようにしたい。
ヘンリーにとって、プロポーズは過去の気の迷いからの過ちだ。
それを綺麗になかったことにしたら、安心するかもしれない。
形として残っている指輪を外すだけでも、少しは喜んでくれるだろうか。
「……この指輪、返そうか?」
「イリス――」
ヘンリーが言葉を失っている。
目を見開いているのは、驚いているからだろう。
身を守るために渡してくれたのだから、身の危険がない今、返すのはおかしくないと思うのだが。
そんなに意外なことだろうか。
「ヘンリーの今後のためにも、紛らわしいものはない方が良いでしょう? この指輪にはとってもお世話になったから、愛着はあるけれど」
「――なら、持っていて」
「え?」
「持っていて。――頼むから、イリスが持っていて」
「ヘンリー? どうしたの」
ヘンリーはイリスの手を握ると、大きく息を吐いた。
「――もう少しだけ、待って。イリス」
「え?」
「もう少ししたら、話せるから。その時に指輪を返したいと言うなら……受け取るから。だから、頼むから、まだ持っていて」
「……よくわからないけれど。わかった。持ってる」
「ありがとう」
何かが吹っ切れたように、ヘンリーの表情が変わっている。
紫色の瞳には、強い意志の炎がともっていた。