番外編 レイナルドの後悔
『伯爵夫人よりも、侯爵夫人の方が私に相応しいでしょ?』
リリアナの声がよみがえる。
彼女は、そう言ってレイナルドから離れた。
レイナルドが嫌いならば。
他に好きな男ができたのならば。
それなら、悲しくてもきっと受け入れられたと思う。
だが、リリアナが見ていたのは爵位だけ。
レイナルドという存在は、そもそも目に入ってすらいなかった。
伯爵令息という肩書だけが、リリアナにとってはレイナルドのすべてだったのだ。
女は結局、そういうものだ。
レイナルドの母も色々と問題を起こしてレイナルドを顧みなかったし、婚約者のセレナだって他の男を選んでレイナルドを捨てた。
唯一、父がよそに作った子供のメラニアだけはレイナルドに優しかったが、彼女も嫁いで行ってしまった。
だから婚約の話が出たイリスにも、レイナルドは大して興味を持っていなかった。
どうせ、イリスもレイナルドを見ないだろうと諦めていたからだ。
学園の夏の夜会であれを見た時の衝撃は、忘れられない。
網膜が焼け付くほどの眩しい赤と、それに負けないほど鮮やかな緑。
レイナルドの髪と瞳の色に包まれたイリスがそこにいた。
以前会った時には、綺麗な顔立ちが印象的だったイリス。
学園で再会すると、額に大きな傷を持ち、だいぶ横に成長した姿になっていた。
正直、その姿に引いた。
そしてレイナルドはリリアナを追いかけていたわけだが、その彼女にも先日振られてしまった。
傷心のレイナルドを嘲笑うかのように、眩しい赤と緑が揺れている。
――そうか。
ここに、レイナルドを見てくれる人がいた。
夜会でレイナルドの色をまとうほどの想いに、どうして気付けなかったのだろう。
「イリス、ちょっといいかな」
振り返ったイリスのドレスは赤と緑が眩しくて、思わず目を細める。
レイナルドでこれだけ眩しいのだから、着ているイリスも相当だろう。
だが、この目の痛みもイリスの気持ちだと思えば、乗り越えられる。
「リリアナさんの所に行かなくていいの? 可愛いから狙われてるわよ?」
「話がしたかったんだ」
イリスは、リリアナのことを気にしている。
婚約の話が出ている自分よりも、リリアナへの気持ちを尊重するとは。
イリスの心遣いに、レイナルドの胸の奥が温かくなった。
「庭に出て話そうか」
「肉がないから、嫌よ。ここでどうぞ」
右手に骨付き肉を握りしめて断るイリスに、レイナルドは一瞬言葉を失う。
肉とは、どういう意味だろう。
二人きりは恥ずかしいということだろうか。
「話が終わったなら、リリアナさんの所へどうぞ」
立ち去る素振りのイリスに、レイナルドは慌てた。
「俺とイリスの婚約の話があっただろう」
「昔の話よ。仮の話だったし。もう全く関係ないんだから、気にせずにリリアナさんと幸せになってちょうだいね」
そう言って、イリスはその場を立ち去った。
イリスはレイナルドがリリアナを好きだと思っているのだろう。
だから、リリアナのそばに行けと何度も勧めてくる。
レイナルドの気持ちを優先してくれているのだ。
自分はレイナルドの色のドレスを着ているというのに。
イリスの優しさと想いは受け取った。
今度は、レイナルドがイリスの想いに応える番だ。
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「結局、侯爵家がいいのか。イリスも俺を捨てるのか」
レイナルドは吐き捨てるように言った。
「……侯爵家は関係ないわ。ヘンリーがいいの」
それは、レイナルドが一番欲していた言葉。
家柄ではなく、レイナルド個人を見てほしかった。
レイナルド自身を好きになってほしかった。
――なのに、また、レイナルドをいらないと言うのか。
その言葉に弾かれるようにレイナルドが動く。
イリスに近付くと、手首を掴んで引き寄せた。
手を振りほどこうとしているが、か弱い女の力では無駄な抵抗だ。
レイナルドの顔がイリスの頬に触れそうになった瞬間――レイナルドの股間に閃光が走った。
「……俺は、何をやってるんだ」
ようやく立ち上がれるようになると、椅子に座ってため息をついた。
別に、イリスをどうにかしようと思っていたわけではない。
カッとなって、衝動で動いただけだ。
それも、落ち着いてしまえば愚かなことだったと思う。
「侯爵家は関係ない、ヘンリーがいいの……か」
レイナルドも、一度でも誰かにそう言われたなら。
きっと、今とは違う人生になっていたのかもしれない。
********
「――レイナルド・ベネガス。聞きたいことがあるんだが」
教室に差す日が落ちかけて薄暗くなり、そろそろ帰ろうとした時だった。
入口に立つ人物は影になって、顔が見えづらい。
「誰だ?」
「ヘンリー・モレノ」
その名前に、レイナルドは椅子から立ち上がる。
茶色の髪に紫色の瞳の少年は、入口の扉にもたれながら腕を組んでこちらを見ている。
「……おまえ、イリスに何をした?」
予想通りの質問だったが、レイナルドはすぐに答えられない。
質問の内容云々ではなくて、何故か上手く声を出せない。
「イリスの手首が痛いというのは、おまえが掴んだんだろう?」
ヘンリーは入口から動いていない。
脅すような強い口調でもない。
なのに何故、自分は恐怖を感じているのだろう。
レイナルドはじりじりと入口から離れていく。
「そ、それは。確かに、俺が手首を掴んだ」
「うん。それで?」
幼子のような相槌に、レイナルドの背を汗がつたう。
嘘をついては、いけない。
本能的に何かを察する。
レイナルドの背が教室の壁に当たった。
「衝動的に動いたから、その時は何も考えていなかったが。たぶん……キスしようとした、と思う」
「……そうか」
ヘンリーは組んでいた腕を解くと、小さく息をついた。
「だ、だが、実際はしていない」
「でも、イリスが怯えたのは事実だ。今後、また過ちを起こさないとも限らない」
そう言ってヘンリーは辺りを見回すと、落ちていた定規を拾う。
「な、何をする気だ?」
「心配するな。わざわざおまえに怪我をさせる気なんてない。傷ひとつつけないから安心しろ」
ヘンリーはそう言って定規を右手に持ち替える。
次の瞬間、ヘンリーの手元から消えた定規はレイナルドの顔の真横に突き刺さっていた。
「――な」
「動くなよ。動いたらさすがに避けられないからな。……刺さるぞ?」
ヘンリーの冷たい笑みに、レイナルドは戦慄した。
世の中には、関わってはいけないものがある。
レイナルドはどうやら、それに触れてしまったようだ。