番外編 クレトの安全
落としたクッキーを拾おうと走るイリスを見ていると、馬の嘶きと馬車が高速で近付く音が聞こえる。
急停止した馬車から飛び降りた男が、イリスにハンカチのようなものを当てた。
男はぐったりと力をなくした少女を抱えると、馬車に飛び乗る。
外の黒い地味な色とは対照的に扉の中は深紅の装飾で、金糸で彩られた模様も見えた。
素早く扉が閉じられると同時に、馬車は急発進し、馬の嘶きが再び周囲に響く。
「――イリスさん!」
突然の事態に声を上げることしかできないクレトの横を、赤髪の美少年が走り抜ける。
「――おまえは、ヘンリーに知らせろ!」
レイナルドはそう叫ぶと高速で走る馬車にしがみつき、そのままあっという間に姿を消した。
クレトは舌打ちすると、すぐに待たせていた馬車に飛び乗り、モレノ邸へ行くよう指示を出す。
このカフェからなら、アラーナ邸に戻るよりもモレノ邸の方が早い。
それにプラシドは宮廷学校に行っていて留守だ、
ヘンリーに知らせる方が優先だろう。
「……情けない」
イリスと一緒にいたのに、誘拐を防げなかった。
それどころか、驚いて動くこともできなかった。
これでは、ただの役立たずだ。
拳を握りしめ、自身の膝を叩く。
「もっと……しっかりしないと。強くならないと」
現状でクレトができるのは、ヘンリーとプラシドへの連絡。
まずはできることをする……後悔は、その後だ。
モレノ邸に到着すると、何だか慌ただしく馬車の準備をしている。
どこかに出かけるのだろうか。
出迎えたヘンリーの侍従に事情を伝えると、運良く在宅だったらしいヘンリーが飛び出てきた。
「――イリスが攫われたって⁉」
「すみません。俺も一緒だったのですが、ちょっと離れた瞬間に」
部屋に通されたものの落ち着かず立っていたクレトだが、ヘンリーの視線に促されてソファーに腰かける。
「カフェから出て馬車に向かう途中で、イリスさんの同級生に会ったんです。その人にクッキーを渡そうとしたんですが、途中で落としたようで。拾いに行ったイリスさんが少し離れたところで、馬車が急にやって来て連れ去られました」
「じゃあ、クレトの目の前ってことか?」
そう、目の前でみすみすイリスを攫われてしまった。
クレトは悔しくて唇を噛んだが、ヘンリーは責める風でもなく何やら思案している。
「……そんな一瞬の隙を突いたのなら、恐らくずっと狙っていたんだろうな。その、同級生というのは?」
「レイナルド・ベネガスさんです。レイナルドさんはイリスさんを乗せた馬車にしがみついて、一緒に行ってしまいました。俺にヘンリーさんに知らせろと言って……」
その名前を聞いたヘンリーは目を瞬かせる。
「レイナルドが? ……それは、悪くないな。他に、何かわかることはあるか?」
「ええと。馬車はとりたてて特徴のない、黒い色で」
懸命に記憶を探ると、ふと気になることを思い出した。
「開いた馬車の中の文様、あれは紋章……。確か――ロメリ子爵家のものです」
アラーナ伯爵家を継ぐにあたって学んだ中に、確かにそれを見たことがある。
クレトの言葉を聞いたヘンリーは、にやりと笑みを浮かべ、立ち上がった。
「お手柄だ、クレト。そういうことなら話が早い。――ビクトル!」
控えていた侍従から上着を受け取ったヘンリーは、流れるような動作で袖を通した。
「ポルセル伯爵に連絡を。騎士団か……代理でウリセスでもいい、至急よこすように。それから、馬車の用意を。――すぐに出るぞ」
「かしこまりました。馬車は既に準備できております」
礼をして下がる侍従を見ると、ヘンリーはクレトの頭に手を乗せる。
「そんな顔をするな。連絡は大事だし、重要な情報も得た。あとは、アラーナ伯爵への連絡をお願いしたい。……イリスは必ず助けるから、なるべく穏便に頼む」
唇を噛みしめながら、クレトはうなずく。
今のクレトには、イリスを助け出す術はない。
それが、どうしようもなく情けなくて、悔しかった。
「……イリスさんを、お願いします」
どうにか絞り出した言葉を聞くと、ヘンリーは苦笑してクレトの頭を撫でる。
「それじゃあ、行ってくる」
風のように去って行ったヘンリーを見送ると、クレトも立ち上がる。
イリスの救出は、ヘンリーに任せよう。
クレトにできる次のことは、プラシドへの連絡だ。
そう考えて、ふと気付いた。
「……あれ? 俺、結構危険なことを引き受けました?」
イリスに甘い親馬鹿なプラシドに、娘が誘拐されたと伝える。
ヘンリーはなるべく穏便にと言っていたが、誘拐の時点で穏便とは程遠いので無理がある。
温厚なプラシドではあるが、イリスが絡めばその限りではないのだから……どうなるのか見当もつかない。
「……まずはアラーナ邸に戻って……夫人に相談しましょう。そうしましょう」
プラシドは留守なのだから、使いを出すにしても帰宅する必要がある。
となれば、イサベルからプラシドに伝えてもらった方が安全だ。
主にクレトの心が安全だ。
少しの冷や汗をかきながら、クレトはモレノ侯爵邸を後にした。
番外編も明日で完結!
番外編終了後は「残念の宝庫 ~残念令嬢短編集~」で「残念令嬢」書籍発売感謝祭のリクエスト短編を連載開始します。
内容は活動報告参照。
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m(_ _)m









