未来の夫を癒すのは
「怪我は本当にないか?」
馬車に乗りこむとイリスの隣に座ったヘンリーは、そう言いながら手を取って検分し始めた。
「大丈夫よ。……ごめんね? 何だか、手間をかけさせちゃって」
ちゃんと馬車で出かけたし、ひとりではなかった。
イリスが悪いわけではないのかもしれないが、ヘンリーに迷惑をかけたことに変わりはない。
「いや、いいよ。それよりも、あいつに薬を使われただろう?」
「ハンカチを当てられたわ。すぐに気を失ったから、たぶんそうなんだと思う」
「気化したものだから平気だとは思うが。一応、これを」
そう言ってヘンリーが懐から出した入れ物には、白い錠剤が入っていた。
「これ、何?」
「解毒剤」
何て用意がいいのだと感心していると、それに気付いたらしいヘンリーが苦笑した。
「もともと、あの薬の不正利用を調べていたんだ。今回は誘拐の件で騎士団も動いているから、あっちに丸投げする。ただ、内容が内容だから『毒』の使用許可は出ていた。尋問するまでもなく素直になっているから、話が早いだろう」
素直というのは、やはり『モレノの毒』の作用だろう。
ルシオに使った時には床をのたうち回っていたが、今回は尋問用に暗示をかけたということらしい。
「解毒剤は、念のため母さんに用意してもらったが……正解だったな」
「あれ、『モレノの毒』だったんでしょう? 前に『毒』を使うと疲弊するって言っていたわよね。大丈夫?」
イリスとしては、ことの経緯よりもそちらの方が心配だ。
だがヘンリーはきょとんと目を丸くすると、眉を下げた。
「あれくらいなら、平気。ほんの少しだし」
ほんの少しで素直とは……それはそれで怖い。
「それよりも、念のためにこれを飲んでくれるか?」
「え? あ、うん」
入れ物から錠剤を取ろうとするイリスよりも先に、ヘンリーの指がそれをつかむ。
何だろうと見ていると、イリスの口に錠剤が押し込まれ――蓋をするように、ヘンリーの唇が重ねられた。
「ん⁉」
驚いたイリスがどうにか離れようともがくものの、頬を包み込むようにヘンリーの手があって、まったく動けない。
「んーむ! んー!」
必死に動こうとしているうちに錠剤が喉の奥に滑り込み、イリスは咳き込んだ。
ようやく手を放されて荒い息で咳き込むイリスの背中を、ヘンリーが優しく撫でる。
原因は自分のくせに、何を労わるような素振りを見せているのかわからない。
「な、何するのよ……」
恥ずかしいには恥ずかしいのだが、それよりも苦しさが勝った。
どうにか呼吸を整えるイリスに、ヘンリーはにこりと微笑んだ。
「解毒と消毒」
不可解な言葉に、イリスの眉間に皺が寄る。
解毒というのは、薬のことだろう。
消毒というのは……もしかして、エミリオにキスされた時のあれだろうか。
「べ、別に、何もされていないわ!」
これはロメリ子爵にキスされたと思われているのだろうか。
とんでもない勘違いなので、しっかりと訂正しなくては。
「わかってるよ。……何かされていたら、あんなものじゃ済ませないしね」
優しい笑みで紡がれた言葉に、ぞくりと背筋が寒くなる。
少し体を引いたイリスに気付いているのかいないのか、ヘンリーの表情は穏やかだ。
「それに、指輪が無反応だったしな」
「指輪? ……そういえば、前にチカチカ光っていたことがあったんだけど。この指輪、壊れているの?」
宮廷学校のベンチで寝ている時に点滅していたが、その後ヘンリーと合流したらいつの間にか消えていたので忘れていた。
攫われた時も何かが光っていたような気がするが、あれも指輪だったのだろうか。
「問題ないよ。イリスに害を与えそうなやつが接近したら、点滅する仕様。俺と合流したら、消えただろう?」
「……は?」
何のことかまったくわからず、イリスはぽかんと口を開けたまま固まった。
「指輪の紫の石は魔力の増幅とコントロールの効果がある。……まあ、そろそろ効果は切れているだろうけど。それで、その横に透明の石が四つ並んでいるだろう? それは全部、イリスに不埒な奴が近付いたら反応するようにしてある」
「意味も理屈も基準も技術も、全然わからないんだけど。……待って。してあるって」
うっかり気付いた自分に後悔したくなったが、まだ否定してもらえる可能性がある。
恐る恐るヘンリーを見てみれば、紫色の瞳が眩しく輝いていた。
――これは、駄目だ。
イリスは返答を待たずに何かの敗北を悟った。
「俺が作った。せっかくならそっちの腕も磨きたかったから、魔道具専攻は渡りに船だな。結婚指輪は期待してくれ」
不埒な人間接近というあまりにも曖昧な設定も謎だが、ただ点滅して終わりだとも思えない。
しかも期待しろということは、何かが確実に進化する。
……世の中には、知らない方がいいことも、きっとある。
イリスは数々の溢れる疑問を、そっと心にしまって無理矢理蓋をした。
「それよりも、イリス。ようやく決まったぞ」
「……何?」
「婚儀の日取り。モレノのあれこれで遅れて悪かったな」
突然の報告に、イリスは数回目を瞬かせた。
「別に、いいわよ。延びても」
急ぐ理由があるわけでもないし、そんなに慌てなくてもかまわない。
だが、その言葉を聞いたヘンリーは笑顔のまま手を伸ばしてイリスの頬を包み込んだ。
というか、頬が潰れかけている気がする。
「――待ち遠しいな?」
「……ソ、ソウデスネ」
至近距離の極上の笑みに、肯定以外の道は残されていない。
どうやらその判断は間違っていなかったらしく、イリスの頬は解放された。
そうか、本当にヘンリーと結婚するのか。
ずっと婚約していたけれど、改めて夫婦になるのだと思うと、何だか不思議な気持ちだ。
次第に頬が熱を持ち始めたが、これはヘンリーが潰したせいだけではないだろう。
すると、それを見たヘンリーがにやりと悪い笑みを浮かべた。
「……ああ。『毒』を使って疲れたなあ。つらいなあ」
「何なの、急に」
わざとらしく額に手を当てるヘンリーを、訝し気に見つめる。
「黄金の女神の祝福があれば、元気になるのにな」
祝福……というのは、もしかしてキスのことか。
何を言い出したのか理解しきれず、イリスは首を傾げた。
「何で? 大体、黄金の女神なんかじゃないわ」
「じゃあ、愛しい未来の奥さん。未来の夫を癒してくれるか?」
「な、何で⁉ さっきは平気だって言ったじゃない!」
イリスの抗議を軽く聞き流したヘンリーは、これみよがしに首を回し始めた。
「あー。疲れたなあ。つらいなあ」
チラチラとイリスの様子を窺っているあたり、完全に嘘だ、演技だ。
だが、『モレノの毒』を使うと疲弊するというのは真実のはずだ。
もしかして、本当はつらいのを我慢していたのだろうか。
仮にそうだとしても、キスでどうにかなるはずもない。
いや、ヘンリーならそういうこともあり得るのだろうか。
ぐるぐると思考が巡って混乱し始めたイリスの前に、白い紙が差し出される。
何だか見覚えのある紙だ。
じっと見てみると、その中央にはイリスの字で『イリス・アラーナ命令権』と書いてあった。
血の気が引く、というのはこういうことか。
イリスはこぼれんばかりに目を見開くと、慌てて紙に手を伸ばした。
「――な、何でこれがあるの⁉」
この紙は、ヘンリーの誕生日プレゼントにとイリスが作ったものだ。
日本でお馴染みの肩叩き券のつもりで作ったのだが、何だかんだでヘンリーに対して攻撃を許可する内容になってしまった危険物である。
ヘンリーが頭上に持ち上げたせいで、イリスの手は空を切る。
またしても身長差を利用するとは、何と卑怯な戦法だろう。
「使わないって言ったじゃない! 捨てるって!」
「今は使わないとは言ったな。でも、もうすぐアラーナじゃなくなるから、今のうちに使わないと」
「何でよ! 紅茶でいいって言ったでしょう? 返してよ、捨ててよ、その破廉恥許可証!」
必死に奪い返そうとするのだが、触れることすらできない。
イリスは立ち上がって飛び跳ねて呼吸が乱れているというのに、ヘンリーは座ったままだし笑顔だ。
何だか色々理不尽だし不平等だ。
テントウムシブローチをひとつもぎ取ってぶつけてやろうかと思っていると、ヘンリーに手を引かれ椅子に座らされた。
「さて、もう一度言うぞ。愛しい未来の奥さん、未来の夫にキスして癒してくれ」
「何それ、酷い!」
悔しいしずるいと思うのだが、ヘンリーの手には破廉恥許可証と化した『イリス・アラーナ命令権』がある。
それに、本当に『モレノの毒』で疲弊しているのかもしれない。
だとしてもキスは必要ないはずだが……。
更なる混乱で、頭がパンクしそうだ。
もう――どうでもいいから休憩したい、帰りたい、眠りたい。
完全に現実逃避し始めたイリスの脳は、帰宅のために覚悟を促してきた。
「……目、つぶって」
「うん」
ヘンリーは返事をすると、素直に目を閉じる。
そうだ。
この間、額にキスしたではないか。
あの時は公衆の面前で、ここには誰もいない。
あれよりはましではないか。
床に落ちた肉か、土に落ちた肉かの違いだ。
どちらもダリアは食べさせてくれないのだから、たいした変わりはない。
そう――肉、肉だ。
ヘンリーではなくて肉だと思おう。
キスをするのではなくて、お肉をかじるのだ。
ただの食事だ。
何も恥じることはない。
帰宅して睡眠をとりたいイリスの脳は、どんどん勝手に納得していく。
椅子に膝を乗せてヘンリーの肩に手を置くと、震えながら額に唇を落とそうとする。
――だが、その瞬間にヘンリーが動き、二人の唇が重なった。
事態を飲み込めず目を見開いて固まるイリスを見て、ヘンリーは満足そうにうなずく。
「イリスからのキス、確かに受け取った。……うん。癒されるな。元気になる」
それはそれは御機嫌のヘンリーは、満面の笑みでイリスの頬を撫でた。
帰宅からベッド一直線のことしか考えていなかったイリスの脳内に、緊急警報が鳴り響く。
半鐘連打、アラーム最大、即刻退避しなければ命はない。
なのに動けないし、顔どころか全身が熱くなるのがわかった。
「――ヘ、ヘンリーの馬鹿ぁ!」
魂を絞り出すような叫びに、ヘンリーは紫色の瞳を細めた。
第8章本編は完結です!
明日からは、そのまま番外編を連載します。
番外編終了後は「残念の宝庫 ~残念令嬢短編集~」で「残念令嬢」書籍発売感謝祭のリクエスト短編を連載開始します。
(内容は活動報告参照)
4/1からは「初投稿から毎日更新2周年感謝短編」として、第8章の男装夜会の裏側をお届けします。
※こちらも「残念の宝庫」ですので、お間違いなく。
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