残念の強化が必要です
イリスは走った。
だが、溶けて薄汚れた寸胴雪だるま風ふわモコ物体は走ることに向いていない。
もう、まったく、致命的に向いていない。
頭に乗せたバケツと人参をカタカタ鳴らしながらどうにか走ったイリスは、宮廷学校の入り口付近まで到達してついに力尽きた。
噴水の横にあるベンチを見つけると、倒れこむように座る。
荒い呼吸を整えながら思い返すが、今日のヘンリーの攻撃もなかなか酷い。
イリスのお弁当を奪った上に唇のソースを舐めろ的なことを言ったり、フラビアの目の前で頬を撫でたり、愛しい未来の奥さんとか何とか……。
ヘンリーは未来の妻を愛でているだけだと頭ではわかっても、心は簡単にはついてこない。
結果、耐えられなくなって離れたわけだが、いつまでもこの状態ではいけないだろう。
だが、先程のことを思い出すだけでも顔が熱くなり、更なる疲労でイリスはぐったりとベンチに横たわった。
薄汚れていようとも、今日のイリスはふわふわモコモコ。
ちょうどいい具合にクッションに包まれたような状態になり、次第にうとうとと眠くなってきた。
屋外で寝るなんて、貴族令嬢として何て残念なのだろう。
この調子なら、女神の名前を返上するのもそう遠くない。
疲労と眠気に意識を奪われながらも、少しばかり満足してイリスは瞼を閉じた。
……何だろう。
変な臭いがする。
あと、何かがチカチカして眩しい。
ぼんやりとしながら目を開けると、目の前に星が刺繍された白いハンカチが近付いていた。
ヘンリーがイリスのよだれでも拭こうとしているのだろうか。
打倒女神のためには、よだれは垂らしっぱなしが正解だ。
ベンチに垂れない程度なら、とりあえずそのままにしてほしい。
まったく、残念な乙女心のわからない男である。
反射的にそれを叩き落とすと、その奥にあったのは想定していた紫色の瞳ではなく、見知らぬ男性の顔だった。
「……え?」
ベンチに横になったまま、しばし男性と見つめ合う。
年の頃は三十代くらいで中肉中背。
とりたてて特徴のない顔だし、記憶にもない……見知らぬ人だ。
それに気付いて慌てて飛び起きると、男性も驚いたのか後退り、ハンカチをポケットにしまった。
「いや……具合が悪いのかと思ったんだが」
「え? ……大丈夫です」
イリスの返答に、男性は安堵の表情を見せる。
ここは宮廷学校の入り口に近いベンチだ。
そこにふわふわモコモコの人間が横たわっていたのだから、不審者なのは間違いがない。
ハンカチの必要性はわからないが、薄汚れたふわモコ物体に素手で触りたくなかった説が濃厚だ。
ふと自身を見下ろしてみると、指輪がチカチカと光っている。
こんな機能があったとは驚きだが、意味がわからない。
蛍じゃあるまいし、光ってもどうしようもないと思うのだが。
「あ、ええと。すみません。何ともないので本当に大丈夫です」
イリスはヘンリーの攻撃で心が疲労し、ふわモコ残念装備のおかげで肉体が疲労しただけだ。
「君は、女の子……だよね?」
――何と、衝撃的な質問だ。
さすがに驚いたイリスは、金の瞳を見開く。
残念装備は、ついに性別を超えた。
ミランダの言っていたことが現実になってしまった。
このまま進むと、残念の向こう側には何が見えるのだろう。
好奇心と少しの恐怖で、イリスの鼓動が高鳴った。
「……一応、女です」
「そうか……」
イリスに劣らないほど驚いた様子で、男性は腕を組んで何やら考え込んでいる。
これは男性に見えたという意味なのか、女性には見えないという意味なのか。
結果は同じでも、だいぶ方向性が違うので気になるところだ。
せっかくなので聞いてみようと口を開きかけると、それよりも早く男性がぽつりと呟いた。
「――だが、美しい」
――何と、更なる衝撃だ。
今のイリスは溶けて薄汚れた寸胴雪だるま風ふわモコ物体であり、一部の隙も無く間違いのない残念装備だ。
それに対して美しいとは、一体どういうことだろう。
これは、相当残念が不足しているのかもしれない。
打倒黄金の女神という目標もあることだし、本格的な残念の強化が必要だ。
それにしても指輪の点滅が止まらないのだが、一体どういうことだ。
よくわからないが、壊れたのだろうか。
……壊れるって、何だろう。
「……イリス嬢?」
そこに藍色の髪の少年が小走りで近付いてきたが、段々と眉間に皺が寄っていく。
「イリス嬢……だよな?」
これはまさしく、残念なものを見る目。
残念の自信を無くしかけたところに、すかさず救いの眼差しを注いでくれるとは。
さすがは推しキャラ、実に尊い。
「……こちらは?」
ウリセスの鋭い視線を受けた男性は、たじろいで一歩後退る。
「通りすがりの親切な人に、残念な気合いを入れてもらっていました」
「はあ?」
「わ、私はこれで……」
ウリセスの声に怯えたのか、男性はそそくさと立ち去る。
宮廷学校の敷地内ではなく校外へ出たところを見ると、本当に通りすがりでイリスを心配してくれたのだろう。
男性の後ろ姿を険しい顔で見送ると、ため息をついたウリセスがイリスに向き直した。
「よくわからないが、あまりひとりでいない方がいい」
「ウリセス様は、ここに何か用があったんですか?」
「いや。たまたまヘンリーに会ったら、イリス嬢を探す手伝いをしろって。……何だか調整がいまいちだとか、攻撃機能が不足とか、よくわからないことを言っていたが……」
そういうウリセスの視線を追うと、イリスの左手の指輪に向かっている。
先程までうっとうしいほどチカチカ光っていた指輪は、淡く光を放つだけだ。
……いや、光る時点で意味がわからないのだが。
説明を求められても困るなと思いつつウリセスを見ると、それはそれは嫌そうに眉を顰め、そして指輪から視線を逸らした。
「とにかく、ヘンリーからあまり離れない方がいい」
「ヘンリーは攻撃的なので。……そうだ。『黄金の女神が紫の悪魔の祝福を倒す』という噂は本当ですか?」
「何か、色々混ざっているが。まあ、確かにある」
あっさり肯定されてしまい、イリスは衝撃を受けた。
「対抗戦で君とヘンリーが公衆の面前でいちゃつくから、変な刺激になったらしくてな。妙なやる気に溢れている」
「一応伺いますが、その女神というのは」
「君だな」
またしてもあっさりと肯定されたイリスは、深く息を吐いた。
「……なるほど。やはり本格的に残念に取り組まなければいけないようですね。ありがとうございます、ウリセス様」
イリスは立ち上がると、ふわふわモコモコのスカートの埃を払う。
「私、立派に残念になって――女神を打ち倒します。見ていてください」
「はあ?」
「では失礼します!」
「……ヘンリーは、大変だな……」
頭に乗せたバケツと人参をカタカタと鳴らしながら歩き出すイリスと、そこに現れたヘンリーを見て、ウリセスはため息をついた。
小説家になろう初投稿から毎日更新、700日を超えていました!
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