番外編 ヘンリーの認識
『意に添わぬ婚約を阻止するために、ヘンリーのことを好きだと公言するのを、一年間許してほしい』
隣国にいる姉カロリーナからの手紙には、そう書いてあった。
イリス・アラーナという友人が困っているので、助けてあげてほしいという。
自身も悪評で国に戻れていないのに、随分と優しいことだ。
だが、いい機会でもあった。
カロリーナは『隣国からいじめをする稀代の悪女』と呼ばれているが、あれは全くの見当違いだ。
本当に噂の美少女を害しようとしたのなら、カロリーナは隣国からいじめなどという面倒なことはしない。
直接武器でも持って殴り込みに行くだろうし、公衆の面前で蹴散らすだろう。
姉のことがわかっているからこそ、ヘンリーは悪評を信じていなかった。
カロリーナが大人しく隣国に行き、未だに何もしようとしない理由は不明。
そろそろどうにかしようとヘンリーも思っていたところだ。
だが、調査をするには相応の時間がとられる。
侯爵令息に色目を使う女性達の風よけが、ちょうど欲しいところ。
イリスという少女の要求を飲む代わりに、役に立ってもらおうとヘンリーは考えていた。
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「ヘンリー・モレノだ。……君が、イリス?」
シルビオに連れられてきたその少女を見て、ヘンリーは困惑した。
まず、額の大きな傷に目が行く。
伯爵令嬢と聞いていたが、何がどうなるとこんな大怪我をするのかわからない。
しかも、まったく恥じている様子も隠している様子もない。
更に、ドレス姿が不自然だ。
胸と腹の境がないくらい肉付きが良いのに対して、顔や手は驚くほどほっそりとしている。
そういう体型なのだと言われればそれまでだが、やはり違和感は拭えない。
顔立ちだって、よくよく見てみれば造作も悪くないのに、もったいない。
どうしても傷の方に目が行くので、よほど注意してみなければわからないが。
何にしても、奇妙で不自然で残念。
それが、イリスの第一印象だった。
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「――ということで、ちょっと一緒にいてもらえる?」
前後を端折った雑な説明にヘンリーは怪訝な顔をしたものの、そのままイリスの隣でお茶を飲む。
「……お願いした私が言うのもアレだけど、何で一緒にいてくれるの?」
「本当におまえが言うな、だな。それより紅茶に肉は、やめてくれ」
ヘンリーは紅茶と共に、イリスの頼んだ肉の揚げ物を食べている。
味が合う合わない以前に、午後のティータイムに相応しい組合わせとは思えない。
肉の皿をいくつも並べていたこともあるし、肉が好きなのかと思えば、ろくに食べない。
食べないようにしているというよりも、本当にお腹に入らないという感じだ。
あの食事量でどうやって体幹の肉付きを維持できるのか、不思議なくらいだ。
食べられないなら肉を頼まなければいいとヘンリーは思うのだが、そこはイリスにとって譲れない線らしい。
自分では食べられないのに、決して捨てようとしないイリスは、ついに肉を持ち帰ろうとし始めた。
伯爵令嬢が肉の持ち帰りというのも、どうなのだろう。
他人とはいえ、一年間の約束をしている間柄だし、食べ物を安易に捨てないことは好感が持てる。
仕方ないので、ヘンリーはイリスの肉を手伝うようになった。
そうして話をしてみれば、イリスは面白い人間だった。
「……まあ、俺としてもイリスと一緒にいれば女共に絡まれることも少ないし、自由に動ける時間が増えてありがたいけどな」
事実、イリスと過ごすようになって、格段に女性に絡まれることは減った。
額の傷、妙なぽっちゃり体型、肉の皿を並べるなど、謎な上に残念なイリスには同性も近付きづらいらしい。
ヘンリーにとっては恩人のようなものだ。
侯爵家の肩書きに群がる女性に比べれば、イリスの方がまだ将来を考えられる。
ヘンリーの事情を考えると、美女に恋して夢中になるのもあまり良くない。
それなら、イリスくらいの珍妙な人間がパートナーの方が、影響が出にくいだろうと思ったからだ。
異性ではあるが異性ではない、それなりに親しい友人のようなもの。
ヘンリーはイリスをそう認識していた。
……あの日までは。
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「……イリス、だよな?」
「そうだけど?」
ヘンリーの探るような視線に心当たりがないらしく、イリスは首を傾げる。
首を傾げたいのはこちらの方だ。
ヘンリーの前に立つ少女は、見知ったイリスとはかなり異なっていた。
「え? ああ! そうか。傷のお化粧してないから、わからなかった?」
「あの傷、化粧だったのか。……いや、化粧というか……」
「ボリューム調整も家ではしてないのよ。蒸れて暑いから、あれ。……そんなに違うかしら?」
イリスは自分の体を見直しているが、違うどころの騒ぎではなかった。
まず、何よりも目を引いていた額の傷がない。
化粧だと言っていたが、利点がないし、意味がわからない。
それに、体幹だけぽっちゃり体型なのかと思っていたが、とんでもない。
ぴったりとしたズボンと薄手のシャツが艶めかしくて、目のやり場に困る。
体格としては華奢なのに、グラマラスな体つきだ。
傷がなくなれば、自然と顔に目がいく。
造作は綺麗に整っていて、黒髪に金の瞳という姉で見慣れた色彩なのに、ヘンリーには輝いてさえ見えた。
何てことだ。
――ただの、美少女ではないか。
ヘンリーは愕然とした。
同時に、理解した。
『意に添わぬ婚約を阻止』という、わかりづらい約束内容もこのせいか。
確かに、これだけの美少女では男が放って置かないだろう。
面倒になった結果が、あの変装ということか。
それにしたって、令嬢人生を全力でドブに投げ捨てていると思う。
イリスの様子からすると、寧ろ嬉々としてドブに飛び込んだ上に、優雅に泳いでいるとさえ言っていい。
正直ありえないが、それだけ何か苦労があったのかもしれない。
「婚約阻止のために、他の男が好きなアピールをするんだろう? 夜会は絶好の機会じゃないか」
「――確かに」
イリスは口元に手を当てて考えている。
夏の夜会に一人で参加すると言うイリスに、ヘンリーがパートナーになると申し出たら断られた。
残念に参加したいから、という理由は謎でしかない。
だが、イリスの素顔を知ってしまった以上、一人にするのは心配だった。
「じゃ、パートナーになってくれる?」
「ああ、引き受けるよ」
イリスの返答に、ヘンリーはホッとした。
何かの拍子に素顔がばれる可能性だってある。
パートナーとしてそばにいれば、なおさらだ。
そうなれば、イリスに好意を持つ男は多いはずだ。
ヘンリーでさえ、この素顔にドキドキしてしまったのだから。
「……いや。違う。してない。驚いただけだ」
ヘンリーは小さく呟く。
そうだ。
イリスはカロリーナの友人で、ヘンリーの約束相手で、ヘンリーにとっても友人のようなものだ。
おかしな感情は必要ない。
自分の中でそう納得するヘンリーに、シルビオの声が届く。
「俺もちょっと興味があるな、その夜会」
「シルビオは学生じゃないから入れないし、顔が良いから駄目よ」
いや、その理由はおかしい。
学生じゃないし、年齢からしてばれるから行けない。
それだけでいいのではなかろうか。
確かにシルビオは美青年だが「顔が良いから」って。
……つまり、イリスはシルビオのような男が好みなのだろうか。
「そうか。じゃあ仕方がないな。なあ、ヘンリー?」
何だか楽しそうなシルビオに、ヘンリーは曖昧な返事を返すしかなかった。