黄金の女神の祝福
しばしの沈黙が流れる。
イリスだけでなく、周囲の騎士科達までが固唾をのんでヘンリーの反応を待つ。
気付いて怒るか、それとも気付かずにこれで満足するか。
今やイリスと騎士科男性達は、同じ思いを胸に抱く同志である。
注目の中、ヘンリーは目をつぶったままじっとしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……なるほど。公衆の面前で俺から思いきりキスしてほしいということか」
怒るでも満足するでもないヘンリーは、妙なことを言いだした。
これはつまり、もっとしろという催促だろうか。
「何でよ。したわよ」
「――肉だろう」
「な、何でバレたの?」
鋭い指摘に、声が上擦る。
いい感じにちょっとだけ触れたと思うのだが、何故気付かれてしまったのだろう。
「炭火の香ばしい匂いがした」
「ああ! 炭火が裏目に!」
対抗戦のために気合を入れた炭火焼きが、まさかこんなところで足を引っ張るとは。
実に残念だが、今はポイントを稼ぐ時ではない。
「目をつぶっている間にしないなら、俺からするぞ」
ヘンリーの声はいつも通りのようで、響きが少し怖い。
ここで粘れば、恐らく宣言通りにヘンリーはキスをしてくる。
……それも、思いきり。
程度は想像もつかないが、危険であることだけはわかる。
死ぬくらいなら、額にキスした方がましだ。
イリスは本能の指示に従い、覚悟を決めた。
「目、つぶっていてね」
「うん」
両手の肉を握りしめると、少し震えながらヘンリーに顔を近付ける。
振れるか触れないかという口づけを額に落とすと、何故か周囲から大歓声が上がった。
自分からヘンリーにキスするなんて、初めてのことだ。
触れたのは一瞬とはいえ、顔がどんどん熱を持っていくのがわかる。
「こ、これでいいんでしょう?」
ようやく目を開けたヘンリーにそう言うと、ひざまずいたままのヘンリーはイリスの手をすくい取った。
「うん。――黄金の女神の祝福、確かに受け取った」
イリスの手に唇を落とすと、にこりと微笑む。
既に十分に恥ずかしい思いをしたのに、さらに上乗せしてくるとは、何たる鬼畜。
限界をあっさり突破したイリスは、ふるふると震えた。
「――ヘ、ヘンリーの、馬鹿ぁ!」
そのままイリスは走って会場を飛び出したのだが、何せ今日は蓑虫ローブを身に纏っている。
走れば走るだけ重量が足に響き、あっという間にイリスは力尽きた。
まさに虫の息といった状態で建物の陰に隠れていたのだが、まさかこんな形で蓑虫の虫感を体現することになろうとは……残念は奥が深い。
疲れ切って座り込むイリスをあっさりと見つけたヘンリーは、そのまま抱え上げて馬車に押し込んだ。
抵抗する間もなく運ばれたイリスは、最後の力を振り絞ってヘンリーが隣に座るのを拒否した。
荒い息で拒否するイリスを不憫に思ったのか、瀕死の虫に近付きたくないと思ったのか、ヘンリーは大人しくそれに従う。
窓の外を見ながら暫く馬車に揺れていると、ようやく呼吸も落ち着き、疲労も回復し始めた。
そうすると、ヘンリーの理不尽な行いに段々と腹が立ってくる。
イリスはヘンリーの向かいに座って車窓を眺めながら、頬を膨らませていた。
「……そんなに怒るなよ。約束を果たしただけだろう?」
まったく反省の見られない台詞に、イリスは勢いよくヘンリーを睨みつけた。
「してないもん。濡れ衣よ、濡れ約束よ。酷い!」
「そんなに嫌だった?」
不思議そうに首を傾げるヘンリーの様子が、信じられない。
イリスは更に一段階頬を膨らませる。
「だって。あんなにたくさんの人の前で、恥ずかしいじゃないの」
「……ふうん」
全然理解しているようには聞こえない相槌を打ったかと思うと、何故かヘンリーはイリスの隣に座る。
「人がいなければ、いい?」
そう言うなり、手を伸ばしてイリスの顎をすくい取った。
あんなことがあって、隣に座るなと言ったのに座ってきて、ヘンリーの顔が目の前にあって。
何だかどんどん悲しくなってきたイリスの目に、涙が浮かび始める。
「え? イリス?」
「酷い。私、約束してなかったのに。頑張ったのに。……酷い」
訴えている間にも涙は増えていき、段々視界がぼやけ始めた。
明らかに動揺し始めたヘンリーが、珍しく慌てている。
「いや、ちょっと……」
「私、お肉あげるって言ったのに」
悔しさと悲しさで唇を噛みしめると、ついに決壊した涙が頬を伝う。
「ご、ごめん」
「お肉あげるから、もうしないで」
声を震わせながらお願いすると、ヘンリーは困惑した様子でイリスから手を放した。
「いや、肉はいらないけど。……ごめん。イリスを景品にされて苛ついたのと、牽制したくて」
「景品が嫌なら、止めてくれればいいじゃない」
「でもな。イリスからキスしてくれるチャンスなんて、そうそうないし。もったいないだろう?」
「――全然! 反省していない!」
ぷい、と顔を背けると、その勢いで涙が飛び散ってキラキラと輝いた。
頬を限界まで膨らませたイリスは、蓑虫ローブをぎゅっと握りしめる。
馬車に乗った時に武器を取り上げられてしまったので、今は丸腰だ。
朝からじっくり焼いた炭火焼の肉ならば、ヘンリーに鉄槌を食らわせることができたかもしれないのに、残念だ。
横から差し出されたハンカチを渋々受け取ると、涙を拭う。
いっそ鼻でもかんでやろうかと思ったが、そんなことをしても洗うのは使用人だ。
とばっちりで鼻水まみれのハンカチを洗わせるわけにはいかないので、断念した。
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