番外編 仕立て屋ミランダの閃き
「イ、イリスお嬢様で、いらっしゃいますよね……?」
ミランダの声が震えた。
仕立て屋の仕事をして二十年。
こんなことは初めてだった。
アラーナ伯爵家は、ごく普通の貴族の家だ。
仲の良い夫妻には、年頃の一人娘がいる。
イリス・アラーナ伯爵令嬢は、豊かな黒髪に輝く金色の瞳の美しい少女だ。
華奢な体つきに白磁の肌のイリスは、どんなドレスでも着こなせる、ミランダ自慢の顧客だった。
――それが何故、こんなことになっているのか。
額には大きく醜い傷跡があり、痛々しい。
その存在感に、美しい顔が霞んでしまうほどだ。
何か事故で怪我を負ったのだろうか。
そんな噂は聞いたことがないが、アラーナ伯爵が揉み消したのかもしれない。
どうせ消すなら、噂よりも傷跡を消せばいいのに。
華奢だった体も丸みを帯びて、くびれが控えめになってしまっている。
というか、胸と腹の間に境が見当たらない。
手や顔は変わらずほっそりとしているが、どういう種類の太り方なのだろう。
イリスの後ろに控えている侍女は、何をしているのだろう。
いつも品の良い化粧をイリスに施していたのだから、技術はあるはずだ。
前髪で隠すなり、化粧で誤魔化すなりできそうなものを。
もとが良いだけに、もったいなさ過ぎる。
「そうよ。さっそくだけど、学園の夏の夜会のドレスを仕立ててほしいの」
イリスは顔の傷のことなどまったく気にしていない様子で、店の生地を見始めた。
いつもなら、伯爵家にミランダが赴き、希望を聞いてデザインを持って行く。
だが、今回はイリス自身がミランダの店に足を運んでいた。
伯爵令嬢としては珍しいことだが、イリスはたまに店を訪れることがあった。
土台が良いので何でも似合うイリスだが、たまに冒険をして変わった色合いのドレスを仕立てることがある。
流行色は人気だが、皆が同じになれば、何の個性もなく魅力も薄れる。
そういう時に、アラーナ伯爵令嬢イリスの仕立てたドレスは、密かに話題になっていた。
今回も、少し毛色の違うドレスを作る気になったのかもしれない。
生地の色は口頭での説明よりも、やはり本物を見る方がわかりやすいからだ。
「今の流行って、パステルカラーよね?」
「はい、お嬢様。特に淡いピンクやブルーが人気でございます」
淡い色を使った、淑やかで控えめな装飾のドレスが、ここ最近の流行だった。
「じゃあ、それはないとして。……濃い色の生地って、どのあたりにあるのかしら」
やはり、今回は流行と違うものを仕立てるようだ。
イリスの選択が、新しい流行になることは多い。
ミランダは案内しながら、職人として胸が高鳴った。
「メインの生地はこれにするわ」
「……はい?」
ミランダは目を疑った。
イリスが手にしたのは、流行からかけ離れた濃い赤の生地。
それも、蛍光色でも織り交ぜたかのような、鮮烈な赤だった。
ミランダもこんな生地が店にあるとは思わなかった。
誰が仕入れたのだろう。
色が激しすぎて、何に使用すればいいのかわからない。
「本当に、この生地でよろしいのですか?」
「ええ。これだけ激しい色で目が痛ければ、十分な威力だわ」
生地を選ぶ理由が、ミランダの理解を超えていた。
だが、きっと考えがあるはずだ。
他の生地との兼ね合いで、この赤も上品なドレスに変化するのだろう。
たぶん。
「あと、レースとフリルはこの色にするわ」
イリスが手にしたのは、これまた鮮烈な緑色だった。
葉の上に広げれば青虫も意識を失いながら羽化しそうな、主張の強さである。
本当に誰なんだ、仕入れたのは。
イリスが帰ったら、しっかりと話をしなくてはいけない。
「ほ、本当にこの組み合わせでよろしいのですか?」
この赤と緑は、どう見ても貴族令嬢のドレスに使う色合いではない。
強いて言うなら、目を痛めつける拷問にでも使えそうだ。
だが、イリスは満足そうにうなずくと、緑のレースとフリルの山を築き始めた。
「あ、あの、お嬢様? そんなに沢山、どうなさるのですか?」
「どうって、ドレスに使うに決まってるじゃない」
「そのレースとフリルを全部、ですか!」
イリスが取り出した量は、流行のドレスなら十着は仕立てられる。
「全部よ。限界まで悪趣味に盛るの。――ああ、やめて。赤と一緒に並べないで。目が痛いから!」
自分が選んだ生地でダメージを負いながらも、イリスは考えを変えなかった。
気の迷いか、体調が悪いか、ミランダをからかっているのかもしれない。
何度も何度も、このまま仕立てていいのかイリスに確認を取ったが、決定が覆ることはなかった。
混乱と絶望の中、採寸の用意をする。
丸みを帯びた体に、極彩色のレースとフリルだらけのドレス。
これは一体、何の罰ゲームなのだとため息がこぼれた。
「お嬢様、採寸するのですから、それはすべて外してくださいませ」
「駄目よ。このままのサイズで作ってほしいんだから」
「いけません」
「ああ、取らないで。一度外したらもう巻きたくなくなるから! 暑いんだから!」
「それは喜ばしいことです。ところで、さっきの生地は何ですか? 酷い色合いではありませんか」
「そう? やっぱり? 良かった。私の見立ては間違っていなかったのね」
「完全に間違っています。お嬢様には似つかわしくありません。変更してください」
「嫌よ。あんなに目が痛くて攻撃的な色合い、最高に残念じゃないの」
イリスと侍女が何やら揉めているのだが、さっぱり要領を得ない。
とりあえず、イリスから見てもあの生地は目が痛くて残念な色合いらしい。
ならば、何故そんな生地でドレスを仕立てようと思ったのだろう。
首を傾げながらノックして入室すると、ミランダは目を瞠った
下着だけの姿のイリスは、ドレス姿とかなり異なっていた。
華奢な体格は基本的に変わっていない。
胸が成長し、腰回りに多少の丸みが増したおかげで、より女性的で魅力のあるボディラインになったとさえ言えた。
イリスの足元に大量の布が落ちているところを見ると、どうやら布を巻きつけて体格を良く見せていたらしい。
体幹だけ太る妙な体型は、この布のせいか。
コルセットを締め付けてでも細身に見せようとする令嬢が多い中、イリスの行動は不可解でしかない。
「あの、イリスお嬢様。これは体に巻いていたのですよね? 一体何のためでしょうか?」
ミランダが恐る恐る尋ねると、イリスは胸を張って答えた。
「残念な令嬢になるためよ!」
顔に傷を負い、下着姿のまま。
だがイリスは自信に溢れ、輝いて見える。
ミランダの中に何かが閃いた。
清楚で上品なドレスは、もう飽きた。
これからは、醜く、残念な中に美を見つける時代がやってくるのかもしれない。
まったく新しい考え方に、ミランダの職人魂が揺さぶられた。
「……イリスお嬢様。その布を巻いた状態で採寸いたしましょう」
ミランダの提案に、イリスは顔を綻ばせ、侍女は眉をしかめた。
次代の先駆者というものは、えてして理解が得にくいものだ。
あの極彩色の目に攻撃的な生地が、時代を変えるかもしれない。
生地を仕入れた者がわかったら、褒めた上で追加発注をさせよう。
ミランダは逸る心を抑えながら、採寸を始めた。