ちょっと撫でただけ
「それでね、酷いのよ。攻撃的なの。まったく、あれじゃあ、勉強にならないわ」
イリスは一気に文句を言うと、持参したクッキーを頬張った。
ここ数日、イリスは足繁くオルティス公爵家に通っている。
目的は結婚したカロリーナに会うことだが、もうひとつの目的がヘンリーの攻撃を避けることだった。
羞恥心を取り戻し、リハビリを始め、ヘンリーに慣れようと頑張っているイリスに対して、あまりにも酷い態度だ。
先日も必要もない勉強のためにアラーナ邸に入り浸っていたかと思うと、『早く結婚したい』だの『見放題、触り放題』だの。
言動もどうかと思ったが、行動は更に問題だった。
結婚が延びてもいいという言葉が気に入らなかったらしく、明らかに機嫌が悪くなったので、イリスは逃亡を図った。
だがあっという間に捕まって膝の上に乗せられ、逃げることもままならないまま、至近距離で撫でられ続けたのだ。
もう、恥ずかしすぎて、死ぬかと思った。
思い出して顔を赤らめるイリスを見て、カロリーナは小さく息をついた。
「……それで、うちに来ているわけね」
カロリーナも黒髪に金の瞳という同じ色彩を持っているが、その雰囲気はだいぶ違う。
元々凛として美しかったが、結婚したせいか何となく色っぽさも増したような気がした。
「……駄目だった? やっぱり、毎日は迷惑よね」
ダリアにも再三注意されはしたが、自分の身を守るためにオルティス家に通い続けた。
しかし、カロリーナには、やはり迷惑だっただろう。
通い続けて五日目。
さすがにイリスも少し後ろめたくなり、手土産の量も日に日に増えている。
ちなみに今日は残念なスイーツの定番、バターの海に溺れたクッキーだ。
更なる甘さを追求した結果、バターに蜂蜜を加えた自信作である。
『バターの海で既に溺れているのに、更に蜂蜜の沼で遭難しました』とダリアが称賛してくれただけあって、サクサクとベタベタのコラボレーションが甘ったるい。
腹持ちが良すぎて食事に差し支えること請け合いである。
そんなクッキーをひとりでひたすら食べ続けている赤髪の美青年は、カロリーナの夫になったシーロだ。
「そんなことないよ。面白……いや、イリスは妹になるわけだし。好きなだけ遊びに来て」
何やら本心が垣間見えたが、イリスにも都合があるので聞こえなかったことにする。
「イリスが遊びに来るのはいいんだけど、後が怖いというか。……シーロ様、食べ過ぎよ」
「いや、イリスが持ってくるお菓子はどれも愉快で甘くて最高だよ。今日のは特に、甘さが喉を焼くね」
愉快とか喉を焼くとか、どう考えてもクッキーに対する評価ではないが、シーロは笑顔だ。
「シーロ様は、甘党なんですね」
べたついた指を用意された布巾で拭くと、シーロは満足げに紅茶に手を伸ばす。
「甘いものは好きだよ。ヘンリーの所の侍従も結構な甘党だよね。……まあ、ニコラスには及ばないけど」
ヘンリーの再従兄であり『モレノの毒』の継承者でもあるニコラスは、カロリーナ曰くいかれた甘党である。
紅茶一杯に対して、砂糖が飽和状態になって溶け切らずにジャリジャリいうほど入れる人を、他には知らない。
「じゃあ、せっかくなので明日は新作の残念な甘々菓子を……」
「――イリスが作るのか?」
その涼やかな声に、イリスの肩が震える。
錆びついたネジのようにゆっくりと振り返ると、扉にもたれるように茶色の髪の美少年が立っていた。
イリスの頭の中に船の汽笛が鳴り響く。
慌ててソファーから飛び出すと、慌ててカロリーナの後ろに身を隠した。
「最近、いつ行っても出掛けていると思えば。……勉強はどうしたんだ?」
ヘンリーは呆れた様子でそう言うと、今までイリスが座っていたソファーに腰を下ろす。
「ちゃんとしているわ。夕方から夜にかけて。おかげで最近、寝不足よ!」
元々イリスの体力は切ないほどに貧弱で、睡眠は必須だ。
それを削って勉強しているせいで、なかなか疲労が取れなかった。
「昼間にすればいいし、出かけなければいいだろう」
「だって、出かけないとヘンリーが来る……」
慌てて自身の口を手で覆うが、うっかりこぼれた本音は元には戻らない。
「へえ。……じゃあ、俺に会わないように外出していたのか」
「そ、そんなことあるけどない!」
怖くなってカロリーナの影に隠れていると、様子を見ていたシーロが笑い、カロリーナがため息をついた。
「イリスは正直だなあ」
「ヘンリー。あんたが度を越したかまい方をしているから、怯えられているのよ。もう少し節度を守りなさいよ」
カロリーナの言葉が、震えるイリスの心に染みる。
感謝と好きを込めて後ろからカロリーナに抱きつくと、優しく腕をさすられた。
「ほら。こんなに素直で可愛いのに」
「……カロリーナ、それ逆効果じゃないかな」
シーロの指摘通り何かが良くなかったらしく、少しばかりヘンリーの眉間に皺が寄った。
「度をこした、ねえ。……それで、その内容は知っているのか?」
「さあ? まあ、イリスだから割り引いて考えると……勉強にかこつけてキスしまくったとか?」
カロリーナの口から恐ろしい惨劇が語られ、イリスは思わず身震いをした。
だが、ヘンリーは震えるどころか面白そうに笑みを浮かべる。
「ちょっと膝に乗せて撫でただけだよ」
「……どこを?」
カロリーナの容赦ない指摘に、イリスの方がダメージを受けている気がする。
「頭」
「……だけ?」
「だけ」
ヘンリーの返答を聞いたカロリーナとシーロは眉間に皺を寄せたまま顔を見合わせると、そのままため息をついた。
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