番外編 フィデルの独白
「ヘンリーが、昨日から帰っていないらしいんだ」
花婿の衣装に身を包んだ異母弟は、フィデルが休む部屋に入るなりそう告げた。
慌てはしないが看過もできないという様子のシーロは、扉を閉めるとため息をついた。
「まあ、大丈夫だとは思うけどさ。……でも、カロリーナの結婚式に間に合わないのだとしたら、ちょっとおかしいだろう?」
「まあ、大丈夫だろうな。だが、確かにおかしい。何の連絡もないということか?」
「ああ。カロリーナも、侍従も知らないらしいよ」
「あいつが連絡を怠るとは思えないな」
こうして話しているが、フィデルはヘンリーのことを心配はしていない。
王家直属の諜報機関であるモレノ侯爵家の次期当主は、その剣の腕前も恐ろしく、それ以外も恐ろしい。
彼を害する目的で近付いても、本懐を遂げるのは難しいだろう。
だから、ヘンリーが帰らず連絡もしないというのなら、理由があるはずだ。
「カロリーナが言うには、イリスに執着している奴がいて、何度も襲撃されているらしい。ヘンリーの見立てでは、どうやらアコスタ侯爵家が関わっているそうだよ?」
シーロはテーブルの上の菓子に手を伸ばすが、ソファーには座らずに立ったまま食べている。
「ああ、報告を受けている。決定的な証拠こそないが、間違いないだろう。……イリス嬢とおまえに執着しているらしいな」
かつて学園の舞踏会を騒がせたクララ・アコスタは、シーロへの懸想をこじらせていて、その場にいたイリス・アラーナのことも逆恨みしていた。
「そうみたいだね。まあ、俺の方には被害はないよ。これでも一応公爵だし、手を出しづらいんだろうね」
「その分、伯爵令嬢のイリス嬢が狙われているのだとすると……その件で何かあったのかもしれないな」
イリス・アラーナ伯爵令嬢は、ヘンリーの婚約者だ。
将来の『毒の鞘』である彼女に御執心のヘンリーならば、クララに関する証拠のためなら多少の無茶も辞さないだろう。
「この結婚式には、イリス嬢もシーロも揃う。あちらが行動を起こす可能性は高いな」
「一応、準備だけはしておいてくれるかな」
「ヘンリーに事前に頼まれているから、準備はしてあるよ」
そう言って腰に佩いた剣を見せると、シーロは肩を竦め、菓子をつまんだ。
「……何だ。話は通っていたのか」
「モレノと王の間に、隠し事はいけないからな」
君主と臣下ではあるが、それと同時に恩人でもある。
正直、実感はないとはいえ、モレノの重要性は十分に理解している。
理解できる人間だったからこそ、王になったと言ってもいいのかもしれない。
「俺達もモレノの人間もそこまで心配していないけれど、イリスだけはまだ理解していないから不安そうでさ。……早く、結婚してしまえばいいのにね」
「シーロが先に結婚するせいで、遅れているのもあるだろう?」
痛いところをつかれたらしく、シーロは少しばかりばつの悪そうな顔になる。
「それは、ないとは言わないけどさ。こっちだって十分に待ったんだから、譲れないな」
「まあ、おまえが譲ろうにも、無理だっただろうが。……イリス嬢は『解放者』を務めたと聞いたぞ。しかも、何ともなかったらしいな」
「そうだね。ピンピンしていたよ。普段はか弱いのにな」
「となれば、普通の準備では足りないだろう。どちらにしても、待つしかないさ」
「了解」
シーロが退室した後には、テーブルの上の菓子は一つ残らず消えていた。
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「あの。……何故、陛下が助けに来てくださったのですか?」
黒髪と金の瞳が美しい少女が、おずおずと尋ねてくる。
王家直属の諜報機関であるモレノ侯爵家の次期当主で仕事上近しいとはいえ、ヘンリーとフィデルはあくまでも国王と臣下。
だが、モレノと王の関係性を考えれば、おかしなことではない。
「……そうか。まだ婚儀を終えていないから、君は知らないのか」
ヘンリーの日頃の様子からして、もうとっくに結婚しているような錯覚に陥ってしまう。
そう言えば、イリス・アラーナはまだ婚約者なのだ。
つまり、モレノが王家直属の諜報機関だということを知っているが、それだけなのだ。
モレノがどのタイミングでどこまで説明するのかは、さすがにわからない。
迂闊なことは言わない方がいいだろう。
「私が来たのは、モレノがただの臣下ではないからだ」
「忠臣、ということですか?」
「まあ、それもあるが、ある意味それ以上だ。モレノがいなければ、王家は滅びると言っていいからね」
漠然とした真実を告げるが、やはりよくわからないらしい。
混乱した様子のイリスを見て、フィデルは口元を綻ばせる。
まだ何も知らぬ無垢な反応というのは、幼子を見守る気持ちに似ている。
数多を知り成長してほしい反面、このまま無垢であってほしいとも思う矛盾だ。
きっと、ヘンリーも同様だろう。
「モレノの次期当主とその伴侶である『毒の鞘』となるべき君を害する者を、許すわけにはいかない。かつてルシオに『毒』の使用を許可したのは、それが理由だ。……何にしても、詳しくはヘンリーに聞くんだね」
簡単に言えば、イリスを害するとヘンリーが暴走しかねないので手を打つのだが、それもイリスにはまだよくわからないのだろう。
これ以上この話を続けると、うっかり色々教えてしまいそうだ。
ヘンリーはヘンリーなりに話す順番を考えているのだろうから、この辺りでやめておこう。
教会を出て空を見上げると、雲一つない青空が広がっている。
フィデルは腕を上げて伸びをすると、再び控室へ向かう。
歴代の『モレノの毒』継承者の中でもずば抜けた資質を持つのが、ヘンリー・モレノだ。
彼はいずれ、フィデルの治世で陰に日向に活躍することになる。
その伴侶であり『毒の鞘』となるのが、イリス・アラーナ。
彼女の一挙手一投足が世界を変えると言っても過言ではない存在だ。
「……ヘンリーを、頼むぞ」
フィデルの口からこぼれた言葉は、風に乗って空に舞い上がった。