番外編 ダリアの腕まくり
「お嬢様とヘンリー様が、一夜を過ごされる……」
ダリアが驚愕の声を上げると、アラーナ伯爵夫妻は顔を見合わせた。
「いや、違うよダリア。モレノ所有の家で雨宿りをするらしいよ」
プラシドに訂正されたが、そんなものほぼ同じことではないか。
相思相愛……というには幾分残念な香りがするものの、好意がある者同士。
それも、正式に婚約して婚儀を待つばかりの間柄だ。
これを機に一歩大人の関係性になっても、おかしくはない。
「旦那様は、よろしいのですか?」
絵に描いたような親馬鹿のプラシドは、これまでにイリスに近付く数多の男性を妨害している。
伝言は伝わるはずもなく、手紙すら届くことはなく、直接会おうにもろくに公式の場に出てこず、出て来たと思ったら鉄壁の令嬢軍団に取り囲まれている。
イリスに懸想した男性達は皆、一様に苦労しかしない。
本人も十分に残念ではあるが、そもそも普通の男性ではイリスに接することすらできないのだ。
そんなプラシドが、愛娘が婚前に男性と一夜を過ごすのを黙って見過ごすとは思えなかった。
「よろしいも何も、嵐で動けないんだから仕方ないよ。この天気じゃ迎えにもいけないしね」
「ですが」
今までのプラシドならば、嵐だろうが雪だろうが槍が降ろうとも、イリスを迎えに行ったはずだ。
イリスはあまり理解していないが、プラシドの親馬鹿ぶりはそういうレベルだ。
ちなみに、ダリアは命じられれば嵐の中でもイリスを迎えに行く心づもりである。
「それに、ヘンリー君だからね。大丈夫だよ」
「……はい」
なるほど。
イリスを慈しむヘンリーを信頼しているということか。
確かに、ヘンリーならばイリスに無理矢理手を出すようなことはしないだろう。
ちらりとイサベルを見てみるが、こちらはいつもの通り穏やかな笑みを浮かべている。
イサベルもまた、心配していないのだろう。
これだけ信頼されているヘンリーも凄いが、それはそれでどうなのかとも思う。
「まあ、何かあればあったで」
「ええ?」
思わず声が漏れ、慌てて手で口を覆って頭を下げる。
ダリア個人としては、既に婚約をしているし、仲も良いし、別にそういう事になっても構わない。
いっそ、そうなってくれればイリスの残念も少しは落ち着くのではないか、と期待すらしている。
だが、プラシドの口から肯定的な意見が出てくるとは思わなかった。
『ヘンリーを呪い殺そうと思う』と言われた方が、しっくりくるくらいだ。
「婚約者相手だし。イリスがいいなら、私が口を出すことではないさ」
「はあ、まあ。そうでございますが」
「……まあ、イリスを泣かせるようなら、対応を考えるけれどね」
にこりと微笑む姿に、ダリアは安心した。
――良かった、平常運転だ。
この分では、本当に心から肯定しているというよりは、自身に言い聞かせている感じなのだろう。
触らぬプラシドに祟りなし。
この話題には、もう触れないでおこう。
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「いよいよ、カロリーナの結婚式ね」
楽しみにしていたのはわかるが、いくらなんでも早起きしすぎだ。
日が昇るか否かという時刻からそわそわと起き出したイリスを見て、今日一日無事に意識を保てるのか心配になってしまう。
「楽しみなのはわかりますが、興奮しすぎでございます。今日はモレノ侯爵令嬢とオルティス公爵の婚儀です。残念は封印してください。失礼があるといけませんので」
「わかっているわ。……でも、カロリーナもシーロ様も残念には理解があるわよ?」
「新婦の友人で義理の妹になる方が晴れの場で残念となれば、お二人が残念扱いされるのですよ」
「……駄目、なのよね?」
「世間の目というものがございますから。残念は、お嬢様自身で責任を取れる範囲での活用をお願いいたします」
もう既にイリスの残念は一人で責任を取れるような規模を超えているが、そこには触れないでおく。
「……ヘンリーに迷惑がかかるから、結婚後は残念装備は封印した方がいいの?」
「いえ。ヘンリー様は大丈夫です」
「どうして? いずれ侯爵になるなら、世間の目は大切じゃない?」
それはそうだ。
それを言ったら、伯爵令嬢の時点でも世間の目を大切にしてほしい。
イリスは残念で世間と一対一の真っ向勝負を挑む猛者なので、今更ではあるが。
「ヘンリー様はお嬢様のためでしたら、残念の風評被害にも耐えてくださいます」
「……害はあるのね」
「あれのどこに無害な要素があるとお思いですか」
「まあ、害の塊だわね」
「はい」
だが、毒も薬になるとでもいうのだろうか。
イリスの残念には謎の中毒性があるらしく、一定数の愛好家が存在している。
それに味をしめたわけではないのだろうが、イリスはなかなか残念から卒業してくれない。
今ではダリアも毒されて、たまには残念もいいかなどと思ってしまうが、今日は別である。
「何でも結構ですが、そろそろ支度をしませんと。お嬢様を普通に着飾る機会はそう多くありません。――腕が鳴ります」
ダリアは紅茶色の瞳をきらめかせて、心の中で盛大に腕まくりをした。
今日のイリスのドレスは、もちろん普通のドレスだ。
淡いオレンジ色をベースにして、若草色と黄色のレースで大小の花を作り、花吹雪のようにドレス全体に散らしている。
スパンコールとビーズが花弁に添えられているので、朝露を浴びて輝くような美しさだ。
腰には艶のある生地で作ったリボンが結われ、垂らしたリボンの端にはビーズを縫い付けてある。
オフショルダーのドレスに合わせて仕立てた長めの手袋は、こちらも艶やかな白。
手首にはレースの花とビーズでできたブレスレットが揺れている。
髪は緩く編み込んだ三つ編みでまとめ、こちらにもレースの花とビーズがあしらわれていた。
「――完璧です。自分が怖くなります。これで、ヘンリー様も一撃でございますね」
元々眩いばかりの可愛らしさを持つイリスを、磨きに磨いて着飾ったのだ。
この世の『可愛い』がここに集結したと言っても、過言ではない。
ダリアが貴族の男性だったならば、玉砕……というか粉砕覚悟でプラシドに挑んでも悔いはないという美しさだ。
自身の仕事に満足してうなずくと、自然と笑みがこぼれてくる。
「清楚で可愛らしい雰囲気の中にも、大人の階段を上る初々しい色香を忍ばせました」
「……凄いわね。私にないものばかり、よく入れ込んだものだわ」
「お嬢様はお忘れかもしれませんが、元々の土台は一級品ですから」
「ありがとう。残念の力で既に失われたものとはいえ、褒められるのは嫌じゃないわ」
軽く受け流すイリスの言葉に、ダリアはちょっとした驚きを覚えた。
元々そこまで自身の美貌に頓着しない方だったが、それは周囲の友人が軒並み美女揃いで、ついでに関わる男性も美男揃いだったために目が慣れてしまったのだと思っていた。
だが、この言い方から察するに、残念活動のせいで美貌も消滅したと思っているらしい。
冗談ではない。
残念のおかげで新たな信奉者が増えて、ちょっとした残念教の女神扱いをされているのを知らないのだろうか。
それに、一度残念という泥をかぶったおかげで、それにもまったく汚されぬ美貌がかえって注目されているのだ。
なんと、もったいない認識だろう。
「なるほど、そう思っていらっしゃるのですね。では、今後普通のドレスの際には……いえ、残念ドレスであっても、隠しきれぬ美しさを惜しげもなく披露するべく、更に精進いたします」
今まではあまり注目を集めては危険だからと、それなりに抑制していた。
だが、多少箍を外して信者が激増したところで、ヘンリーがいるのなら大丈夫だろう。
イリスの望む残念も、イリス本来の美しさも、すべてダリアが支えていくのだ。
「私は、お嬢様のために、ここにいるのですから」