番外編 ビクトルの激励
「え? イリス様?」
イリスの侍女のダリアに呼び出されてアラーナ邸に来たビクトルだったが、通された部屋で待っていたのは主人の婚約者だった。
このイリスにヘンリーが夢中なのは誰の目にも明らかで、当然ビクトルは自身の危機を正しく理解していた。
これは、まずい。
経緯はわからないが、アラーナ邸に呼ばれてイリスがいるのなら、彼女の指示なのだろう。
何の用かはわからないが、これはまずい。
「ダリアさんも、一緒にいてくれますよね?」
確認というよりも懇願に近くなってしまったが、それも仕方がない。
内緒でと頼まれたので、ビクトルが今ここにいることをヘンリーは知らない。
ヘンリーの知らないところで、イリスと会っている。
それも、部屋に二人きりとなれば――ビクトルが危うい。
ビクトルがイリスにそういった感情を持ち合わせていないのは知っているだろうし、信頼されているのはわかっている。
だが、それとこれとは話が別なはずだ。
「……ビクトルは、そんなに私と一緒が嫌なの?」
少しばかり傷付いた表情のイリスは、それもまた可愛らしい。
だが、今はこの美少女がビクトルを脅かす原因なのだ。
「そうではありません」
「じゃあ、ダリアと一緒にいたいの?」
ビクトルは眉間に皺を寄せて暫し考え込むと、ため息をついた。
いっそそうだと言えば、最悪の事態でもどうにか言い訳が立つかもしれない。
「……もう、そういうことでも構いません。ともかく、ダリアさんも一緒でお願いします」
「わかりました」
「安心しました。……死にたくないので」
ほっとした様子のビクトルを見て、ダリアが笑っている。
「ヘンリー様以外の男性を、お嬢様と二人きりにするはずがありません」
「それもそうですね。良かった良かった」
そう言われてみれば、イリスの方だってビクトルと二人きりなど願い下げだろう。
「とりあえず、座ってくれる? 聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと、ですか」
促されるままにイリスの正面に座ったビクトルは、ダリアの用意した紅茶に口をつける。
「ヘンリーの好きなものとか、教えてほしいの」
まるで、婚約者のために好きなものを知りたがる乙女のような台詞に、少しばかり驚く。
残念だとばかり思っていたが、やはり女性なのだなと感心してしまう。
今のイリスの言葉を、是非ともヘンリーに聞かせてあげたい。
きっと、小躍りして喜ぶだろう。
「ヘンリー様の、好きなもの、ですか」
あらためて考えてみると、なかなか難しい。
嫌いな食べ物はないが、特別好きなものもない。
趣味教養も一通りこなせるが、特にこれといって好きなわけでもなさそうだ。
考え込みながらふと正面を見ると、金色の瞳が期待に満ちてキラキラと輝いている。
――あった、ヘンリーの好きなもの。
「……イリス様ですね」
イリスの動きがぴたりと止まる。
暫し何か考え込んでいる様子だったが、すぐにビクトルに視線を戻した。
「ええと。気に入っているものとか」
「イリス様ですね」
間違いなく、一番のお気に入りだ。
「愛着があるものとか」
「イリス様ですね」
これ以上愛着を持っているものはない。
というか、もはや執着だと思う。
「手放せないものとか」
「イリス様ですね」
手放すはずもないし、イリスが逃げようとしてもそれを許さないだろう。
「大切にしているものとか」
「イリス様ですね」
それもこれも、イリスが大切だからだ。
イリスは紅茶を一口飲むと、ティーカップをそっと置いた。
「……よくわかったわ。ふざけているのね、ビクトル」
怒るというよりは呆れた様子で、イリスは呟いた。
「本当のことなので、仕方がありません。決してふざけているわけでは」
「……まさか、ビクトルにまで攻撃されるとは思わなかったわ」
不満そうな顔を見る限り、どうやらビクトルがふざけて適当なことを言っていると思ったらしい。
これは心外だ。
これ以上ないくらいに、正直に答えたのだが。
「じゃあ、逆に弱点はないの?」
イリスは表情は曇らせながら、ティーカップを片手にビクトルの返答を待っている。
口元に手を当てて考えてみるが、やはり答えは一つだ。
「……イリス様、ですね」
イリスのティーカップが大きな音を立てて、ソーサーに着地した。
「もういいわ。ありがとう、ビクトル」
「はあ。……それでは、失礼いたします」
結局、何のために呼ばれたのだろうか。
よくわからないが、これも残念ゆえの行動なのだろう。
それでも好きなものを聞くなんて、少しはヘンリーを意識してくれているようで、安心する。
ようやく普通の婚約者に一歩近付いたのかと、ビクトルは何となく嬉しくなった。
********
ヘンリーとイリスが泉の家付近に出掛けてしばらくして、急に天候が荒れだした。
馬車があるとはいえ、雨に濡れているかもしれない。
いつでも湯を使えるように準備させていると、御者が戻ってきて爆弾発言をした。
――ヘンリーとイリスは、泉の家で雨宿りをする。
モレノ侯爵邸に激震が走った。
馬車は壊れていて、馬はなく、この悪天候では迎えにもいけない。
つまり、二人で一晩を過ごすことになる。
「うわあ、青春ねえ」
普段モレノの宿で働く姉がちょうど荷を届けに来ていたのだが、御者の報告に感嘆の声を上げた。
「姉さん、馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「何言っているの。二人で一晩雨宿りなんて、絵に描いたような青春の一ページじゃない」
呑気な姉に呆れつつ、雨に濡れた御者にタオルを渡す。
「ご苦労様です。コンラド様には私から報告しますので、休んでください」
「うわあ、青春の報告を父親にするの?」
「青春ではなく、雨宿りの報告です」
楽しそうな姉を放置して、当主でありヘンリーの父であるコンラドの執務室へ向かう。
次期当主とその婚約者が嵐のせいで雨宿りしているというだけだが、逢引きを密告するような気分になってしまうのは何故だろう。
「ふうん」
報告を聞いたコンラドは、表情も変えずに一言呟いた。
「……それだけ、ですか」
「それだけも何も。ヘンリーとイリスちゃんが泉の家で雨宿りしているんだろう? 無事で何より」
確かに雷で負傷したり、ずぶ濡れのまま移動中というよりはいいが、この反応もどうなのだろう。
「心配しなくても、ヘンリーだよ? 泉の家は先代がよく使うから手入れもされているし、どうにでもなるよ。何なら、そこらの侍女よりも甲斐甲斐しくお世話しているんじゃないかな」
確かに、ヘンリーの技術と面倒見を鑑みれば、そうなっていておかしくない。
「それよりも、アラーナ伯爵に連絡を入れておいた方がいい。彼は親馬鹿で有名だし、イリスちゃんの身に危険があるとなれば家を飛び出しかねない。最悪、イリスちゃんを任せられないと婚約に文句を言われでもしたら大変だ」
「それは、確かに大変です」
仮にアラーナ伯爵が婚約を解消したいとでも言いだしたら、ヘンリーが大変なことになる。
イリスを手放すとは到底思えないのでアラーナ伯爵を懐柔するしかないし、そうなると最悪『モレノの毒』を使ってでもイリスを手元に置くだろう。
そんなごたごた、胃が痛くなるだけなので御免被りたい。
「しかし、イリス様の状況をお伝えした場合、違う身の危険があるとわかってしまいますが」
「ヘンリーがイリスちゃんに手を出すと思うか?」
愛しい婚約者と嵐の中、二人きりで夜を過ごす。
字面で見ると甘い雰囲気なのだが、ヘンリーとイリスを配置するとどうも甘さが消えて行く。
主な原因は、イリスの残念だ。
「出さないというよりは……出せそうにありませんね」
「ヘンリーだって馬鹿じゃないから、ここでアラーナ伯爵の怒りを買うような真似はしないだろう。イリスちゃんのことは殊更大事にしているしな。嵐が収まったら、迎えに行ってやるといい」
「かしこまりました」
翌朝、綺麗な青空の中、馬車に揺られながらビクトルは主人に問いかける。
あの後コンラドから聞いたアラーナ伯爵の親馬鹿ぶりはかなりのもので、仮にイリスに手を出していようものなら何が起きてもおかしくない。
どう見ても何もなかったとわかるが、父親の心というものは繊細なのだそうだ。
娘が残念なら、父親も面倒だ。
だが、それでもイリスがいいのだろうから、ヘンリーには頑張ってもらうしかない。
ビクトルは激励の意を込めて、微笑んだ。
「もうすぐアラーナ伯爵家ですが。ヘンリー様、覚悟はよろしいですか?」