仮の夫婦ということで
「……え? 大丈夫なの?」
たった今、本来婚儀を終えないと話せないと言ったのに。
「父さんと爺さんの許可は得てきた。もちろん、まだ話せないこともあるけど」
当主と先代当主の許可って、何だか結構な大事ではないのか。
そこまでして話してほしいわけではないのだが、どうしよう。
ヘンリーは困惑するイリスの左手をすくい取ると、その場にひざまずいた。
「――私、ヘンリー・モレノは、イリス・アラーナを生涯の伴侶として愛し、いかなる時も共にあることを誓います」
紫の瞳はイリスをとらえて離さない。
突然の行動と言葉に、驚いて何も言えずに暫く見つめ合ってしまう。
「な、何? 何で、急に」
「婚儀の後に説明できるというのは、二つの理由がある。一つ目は結婚の儀式自体をもって、伴侶をモレノの一員とする……ある意味、物理的な理由。もう一つが、生涯共にあるという誓いを立てる、精神的な理由」
ヘンリーはイリスから視線を逸らさずに、続ける。
イリスもまた混乱して、視線を外せない。
「儀式には道具と手順があるから、婚儀を早めるのは無理だ。でも、誓いは心があればできる。これで、仮の夫婦ということにして、説明する」
「あ、何だ。説明のためね」
謎の行動の理由が判明して、ようやくほっと息をつく。
なるほど、説明のための手順なのか。
だが安心したところで、ヘンリーの言葉が再びイリスを混乱に陥れる。
「誓いは、本当だよ」
そう言うなり、ヘンリーは指輪に口づけた。
びっくりしたイリスは手を振りほどこうとするが、さっぱり放してくれない。
「返事は?」
「え?」
「俺だけの誓いなのか?」
「私も何か言わないと、説明できないってこと?」
「いや。そもそも俺が説明すると決めて、当主にも許可を貰ったから、返事がないといけないわけじゃない。仮にイリスが俺は嫌だと言っても、手放さないから同じことだし」
あれ、また攻撃か。
これも攻撃なのか。
「じ、じゃあ、別に返事はいらないんじゃない」
すると、ヘンリーは困ったように眉を下げた。
「馬鹿だな。そんなの、俺がイリスに返事を貰えないと寂しいだけだよ」
「で、でも何? 何を?」
「何を言うか?」
何度もうなずくイリスを、ヘンリーは楽しそうに見ている。
「俺が何を言ったか、覚えているか?」
「ええと。私を生涯の伴侶として、あ、愛して。いかなる時も、共にあるって」
駄目だ。
言っているこちらの胸が苦しい。
「……よくこんなこと、言えるわね。恥ずかしくないの?」
「残念ドレスの方が余程恥ずかしいだろうが」
「何よ、こんな時に褒めないで」
「褒めてはいないんだが。……公衆の面前で叫べと言うなら、まあ、恥ずかしいかな。でも、必要ならやる」
公衆の面前で恥ずかしいことを言わなければいけない必要って、何だ。
絶対にそんな謎の必要性はないと思う。
あったとしても、とても実行できそうにない。
「鋼のメンタル……モレノ、怖い……」
「ちょっと違う」
「嘘」
だって既に、相当恥ずかしいことを口にしたではないか。
「言わずにほのめかすだけで伝わるなら、それでいいんだけど。俺の大切な人は、懇切丁寧に説明しても、いまいち伝わりきらない」
「……それは、残念ね」
「そう。残念な、愛しい人なんだ。だから、恥ずかしいとか言っていられない。そんなことで他の奴に持っていかれたら、大変だからな」
これはやはり、イリスの残念ぶりを非難しているのだろうか。
「何だか……ごめんなさい?」
釈然としないままにイリスが謝ると、ヘンリーは笑う。
「いいんだ。それも含めて、イリスのすべてが好きだから」
――さらっと。
恐ろしいことを、さらっと言った。
羞恥心のままに手を振りほどこうとするが、どうしても放してくれない。
すると、イリスの手を握ったまま、ヘンリーが隣に座った。
「それで、返事は?」
「わ、私は」
「うん」
手を握られ至近距離でじっと見つめられて、何だか鼓動が落ち着かなくて、苦しい。
「私も、ヘンリーと一緒が、いい……です」
どうにか絞り出した言葉に、自らダメージを受けて俯く。
諸刃の剣という言葉はあるけれど、これは完全にイリスにだけ牙をむいた状態だ。
こうして振り返ってみると、ヘンリーはよくあんなことを言えたものだと感心してしまう。
反応がないので心配になってちらりと見上げてみると、ヘンリーは優しい笑みを浮かべてイリスを見ていた。
「……うん。イリスにしては、頑張った」
労いながら優しく頭を撫でられると、恥ずかしいのに安心してしまうのは何故だろう。
「これで、仮の夫婦ということで」
そう言うと、ヘンリーはイリスの額に唇を落とした。