心配してください
「では。特に何もなかった、ということかな」
「はい。もちろんです」
ヘンリーが即答すると、プラシドはじっとイリスを見つめる。
橙色の瞳はいつものように穏やかで、イリスにはそれが不思議だった。
普通に考えても朝帰りで、ビクトル曰く相当な親馬鹿らしいから、怒っているのだと思ったのだが……プラシドの瞳から怒りは感じられない。
よくわからずに見つめ合うこと暫し。
プラシドは眉を下げると、優しく微笑んだ。
「……うん。そうみたいだね」
何をもって判断したのかわからないが、どうやら無実を信じたらしい。
だが、紅茶を飲んだプラシドから発された言葉は、イリスの想像を超えていた。
「……別に、何かあっても良かったんだけどね」
「え?」
「は?」
静かな爆弾発言に、イリスとヘンリーは思わず顔を見合わせる。
「――冗談だよ。イリスはアレだし、ヘンリー君のことは信頼しているからね。心配していないよ」
アレって何だと気にはなったが、それ以上に冗談が衝撃的だし、ヘンリーへの信頼がおかしい。
「……心配はしてください」
「あれ? 心配するようなことがあったの? イリス」
「な、ないです!」
「ほら。心配ないだろう?」
にこりと微笑まれれば、イリスの方が間違っているような気がしてきた。
それにしても、このヘンリーへの絶大な信頼は、どこからやってくるのだろう。
「イリス、イサベルのところに行ってあげて。ずっとイリスを待っていたから」
「わかりました」
これはもう、ビクトルが言うほど親馬鹿ではなかったか、ヘンリーへの信頼がおかしすぎて議論に値しないということだろう。
そして、この流れからするとイサベルは普通の親らしい反応のようだ。
もうプラシドは問題ないようなので、イサベルに説明しなければ。
……というか、この部屋にイサベルを呼べばいいだけのような気もするのだが。
「ヘンリー君は、私とお茶しているから。女同士お話しておいで」
「……はい」
どうやらイサベルを呼ぶのではなく、イリスが行くらしい。
意味がわからないまま部屋を退出すると、そこにはダリアが控えていた。
イサベルの待つ部屋に案内するというダリアもまた、いつも通りの様子だ。
「……ダリアは、心配しないの?」
「心配、と言いますと?」
「ええと。い、一応、お泊りした形になるから」
改めて自分で言うと、恥ずかしさが倍増する。
少し頬に熱を持ちそうなのを我慢して前を歩くダリアを見るが、まったく様子は変わらない。
「特に心配するようなことはございませんね」
「ええ、酷い。ダリアは私のこと、心配にならないの?」
嵐の中、主人が夜にも帰らなかったのだから、朝帰り云々は置いておいて、心配してくれてもいいと思うのだが。
「ヘンリー様がご一緒ですから」
「……お父様といい、ダリアといい。ヘンリーをどれだけ信頼しているのよ」
すると、背中越しではあるが、ダリアが笑うのがわかった。
「お嬢様が考えている理由とは、少し違うと思いますよ」
「だから、ヘンリーは大丈夫って信頼しているんでしょう?」
「そうです。ヘンリー様は命に代えても、お嬢様の身を守ってくださるでしょうから」
「……ちょっと、大袈裟じゃない?」
「それに、ヘンリー様のなさることに異を唱えるつもりはございません。もちろん、私にそんな権限はありませんが」
「それ、どういう……」
ダリアの足が扉の前で止まる。
「手を出されても問題なし、ということでございます」
清々しい笑顔でそう言うと、ダリアはイリスを扉の中に押し込んだ。
「お帰りなさい、イリス。嵐に遭うなんて、大変でしたね。怪我はありませんか?」
「……は、はい。お母様」
ダリアまでもが爆弾発言をしてくるのだが、何なのだ。
いくら何でも、問題なしはおかしいと思う。
残念だからか。
イリスが残念な令嬢だから、扱いが軽いのだろうか。
イサベルに促されてソファーに座るが、どうにも納得できない。
「どうかしましたか?」
「……お父様も、ダリアも、全然私を心配しません」
イサベルは暫し瞬くと、くすくすと笑いだした。
「予定の時刻になっても戻らず、嵐が来た時の二人を見せてあげたいですね。それはもう、大変でしたよ?」
「……でも、心配していないって、言いました」
「それは、少し意味が違いますね。ヘンリー君が一緒だとわかっているので、過度な心配は必要ないということでしょう」
「どこからその信頼が生まれてくるのですか」
「見ていればわかることも、世の中にはありますよ」
「でも。お父様ったら、何かあっても別に良かった、って言うんですよ?」
不満を前面に押し出して頬を膨らませると、イサベルは不思議そうに首を傾げた。
「それは……イリス? あなた、何かあったのですか?」
「な、何もありません!」
まさかの疑惑に、慌てて否定するが、イサベルの表情は曇っている。
「ああ、そういう意味ではなくて。……何か見たり聞いたりしましたか? あの名前や紋章のことで」
イリスと同じ金色の瞳に見つめられて、大切なことを忘れていたことに気付いた。
「そ、そうです! お母様に聞きたくて……」
ヘンリーと雨宿りをした家にあった本の話をすると、イサベルの表情は更に曇っていく。
「……それで、その本は? ヘンリー君は何か言っていましたか?」
「元の本棚に戻しました。本を読んでいたことは知っていますが、内容はわかっていないと思います」
「そうですか」
「あの、お母様。私、折り合いの悪い親戚のことだと思っていたのですが。違うのですか?」
「親戚ではありませんよ。……イリス、よく聞いてくださいね」
イサベルはその手を伸ばして、イリスの頬に触れる。
細い指はひんやりと冷たくて気持ち良かった。
「イリスが心配するようなことではありませんから、『忘れていい』のです。でも、もしもあの紋章を持つ者が現れたら。あの名前を知っている者が現れたら。『すぐに帰ってきて』ください」
金色の瞳に吸い込まれそうになり、くらりと目が回る。
だが、揺れそうになった頭はイサベルに支えられ、すぐに視界は戻ってきた。
「疲れたでしょう、イリス。もう休みなさい」
「……はい、お母様」
何だかスッキリとして、不安な気持ちが消えていくのがわかった。
母親に話を聞いて貰って落ち着くなんて、まるで子供みたいだ。
部屋を出て自室に向かいながら、ふわふわとした感覚に包まれる。
やはり、疲れているのだろう。
ヘンリーがプラシドとお茶を飲んでいることもすっかり忘れたイリスは、そのまま部屋に戻るとベッドに倒れこんだ。