覚悟はよろしいですか
翌朝にはすっかり天気は回復して、青空が広がっていた。
台風一過という言葉があるが、まさにその通りである。
ヘンリーの作った妙に美味しい朝食を済ませると、乾いたワンピースに袖を通す。
普段は前髪を三つ編みにしているが、それも解けたので櫛を通すだけにした。
帰るだけならば問題ないと思ったのだが、それを見つけた面倒見の鬼に捕まってしまい、きっちりといつも通りに髪を結われ、リボンをつけられてしまう。
ヘンリーにとって髪型一つ整えるなんて朝飯前なのだとわかってはいても、何だか落ち着かない。
お風呂にも入っていないし髪も洗っていないからあまり近付かれたくないのだが、それを伝えるとヘンリーは何故か笑い出した。
意味がわからなかったが、何となく深追いしてはいけない予感がしたのでそれ以上は聞かない。
そのまま晴れ渡った草原を歩いて馬車を見に行くと、ちょうど迎えに来たビクトルと鉢合わせになった。
修理のための道具と人員と馬を残して、イリスとヘンリーはビクトルと共に馬車に乗り、そのままアラーナ伯爵家に送ってもらっていたのだが。
「もうすぐアラーナ伯爵家ですが。ヘンリー様、覚悟はよろしいですか?」
「覚悟?」
言葉の意味がわからず繰り返すと、ビクトルは神妙な顔でうなずいた。
「イリス様と朝帰りですから。いくら婚約者と言えど、アラーナ伯爵に殴られる程度の事は、覚悟しておいた方がよろしいかと」
「――あ、朝?」
確かに、昨夜はあの家に泊まったが、そういう表現をされるとは思わなかった。
イリスの感覚では避難しただけなのだが、確かに状況だけを見ればそう言われても当然で。
衝撃でイリスが口をパクパクしていると、横に座っているヘンリーがため息をついた。
「一応言っておくが、何もないぞ」
「もちろん、存じております」
「……断言されるのも、微妙だな」
「個人的には好きにしていただいて結構ですが、アラーナ伯爵はそうもいかないでしょう。何せ、親馬鹿で有名ですから」
「らしいな。カロリーナが言っていた」
確かにプラシドはイリスに甘いが、親馬鹿で有名は言い過ぎではないだろうか。
「はい。男性がイリス様に送った手紙は、根こそぎ届かないそうで。イリス様自身もろくに夜会に出ないので、希少動物扱いされていたようですよ」
「希少動物って。……それよりも、手紙が届かないって、何?」
友人達からの手紙はちゃんと届いていたし、何かの誤解だと思うのだが。
「さすがに詳細は私も存じません。何でも、アラーナ伯爵にイリス様を紹介してほしいとお願いすると、暫く頭痛に苛まれるとか、夢見が悪くなるという噂まであるそうですよ。何でも『アラーナの薔薇毒』と呼ばれる怪奇現象らしいです」
「何それ。体調不良を他人のせいにするなんて、酷いわ。……大体、薔薇って何なのかしら」
言いがかりをつけるにしても、何の関係もない花を引き合いに出すのはよくわからない。
気になったことをそのまま口にしただけなのだが、ビクトルからそれはそれは残念な眼差しを送られる。
まさかこんなタイミングで残念扱いされるとは思わなかったが、これはこれで残念ポイントを稼げるので悪くない。
寧ろ、良い。
「アラーナ家に咲く一輪の薔薇。それに触れるものは棘に刺され、毒を受ける」
「……何それ。ビクトルの詩?」
横でヘンリーが噴き出すのが見えたが、とりあえず放って置く。
「違います。薔薇はイリス様のことですよ。要は、イリス様に手出し無用ということです」
「何でそんなことになるの?」
「イリス様を溺愛し、イリス様への手紙を止められる方のおかげでしょうね」
「……お父様?」
確かにプラシドはイリスに甘いし、いわゆる親馬鹿と言ってもいいかもしれない。
だが、手紙云々はにわかには信じられない。
「はい。……ヘンリー様はイリス様との婚約の際に伯爵と一戦交えたわけですから、想像に難くないと思いますが」
一戦交えるって何だろうと見てみれば、ヘンリーは首を傾げている。
「それ、カロリーナにも言われたんだが。……普通の親馬鹿という感じで、特に何もなかったし、寧ろ、歓迎されていたぞ」
「なるほど。『モレノの毒』を盛りましたか」
「盛っていない」
「では、無意識で『毒』を盛りましたか」
「だから、盛っていない」
「……おかしいですね。てっきり、思考回路を破壊する方向で挑んだのだとばかり」
「おまえ、俺を何だと思っているんだ」
ビクトルはヘンリーから視線を外して、わざとらしく咳ばらいをする。
「まあ、とにかく。アラーナ伯爵はお怒りでしょうから、どうにか頑張ってくださいね」
「ああ、イリス。お帰り」
「……ただいま帰りました、お父様」
アラーナ家に到着してすぐにイリスとヘンリーは応接室に通されたのだが、プラシドは至って普通だった。
もちろん何もやましいことなんてなかったとはいえ、形だけ見れば婚約者と朝帰りだ。
羞恥心を取り戻したばかりの初心者には、空まで続くほどの高い壁。
プラシドに怒られても、悲しまれても、切ない。
それでも会ってしまえば何も言わないわけにはいかず、恐る恐る挨拶をしたのだが。
……普通だった。
「アラーナ伯爵。事前にお伝えしましたが、馬車に雷が落ちて身動きが取れず、嵐に見舞われたので当家の所有する家で雨宿りをしていました。結果的にイリスさんを今日までお返しできなかったことを、お詫びいたします」
どうやら、ヘンリーは既にプラシドに事の次第を伝えていたらしい。
いつ、どうやったのかはわからないが、そのおかげでプラシドは普通に対応してくれているのだろう。
「そんなに畏まらなくていいよ。とりあえず座って。イリスもね」
プラシドはそう言うと、穏やかな笑顔で紅茶を口にした。









