何でもない
それは何の変哲もない紺色の表紙の本だった。
同じような色の背表紙がいくつも並んでいる中で、それを手に取った理由はわからない。
何となく気になって手に取った本には、『神話と王国の歴史』と書いてある。
とりたてて興味を引くタイトルではない。
なのに何故か気になって、イリスはパラパラとページをめくった。
王家の始祖が女神の加護を得て建国したという、ナリス王国の人間なら誰でも知っている話だ。
より詳しく遺跡や当時の考察まで交えているが、特に面白いものでもない。
だが、ちょうど本の真ん中あたりで、ページをめくる手が止まった。
ページの隅に描かれた挿絵の一つに、イリスの目は釘付けになる。
当時の衣装や教会の絵図の隅に、それは小さく描かれていた。
「この、紋章……」
間違いない、例の紋章だ。
言ってはいけない名前と共に、見たら逃げなさいと言われた、紋章。
それが何故、こんなところにあるのか。
知らず、ごくりと唾を飲む。
早く本を閉じてしまうべきだと思うのに、手が震えて動かない。
――どうしよう。
何故こんな気持ちになるのか、自分でもわからない。
でも、不安で、怖くて、家に帰りたいという気持ちが急速に膨らんでいく。
呼吸が浅く速くなり、目に涙が浮かびそうになってきた。
「イリス?」
その声に、肩がびくりと大きく震える。
錆び付いた音が聞こえそうな程ぎこちなく振り返ると、台所から戻ったヘンリーがこちらを見ていた。
「……どうした?」
それまでと違う様子に気付いたらしいヘンリーが、眉根を寄せながら近付いて来る。
イリスは慌てて本を閉じると、本棚に押し込んだ。
「何でもない」
どう考えても、何でもないようには見えないだろう。
自分でも血の気が引いているのがわかるし、ヘンリーが見逃すとは思えない。
だけど、何を言っていいのかわからない。
何よりも、言ってはいけないという強迫観念に押しつぶされそうだった。
イリスは首元のネックレスを握りしめるが、その手も微かに震えている。
「……本を読んでいたのか?」
「うん」
嘘は言っていない。
それでも動揺が体に影響を及ぼしているらしく、声が少し震える。
ヘンリーの眉間の皺が更に深くなるのがわかったが、イリスにはどうしようもなかった。
「……数代前の当主が、教会や歴史や神話を調べるのが好きだったらしいんだ。そこにあるのは、じいさんのもので、それなりに古い本らしい」
「そう、なの」
「ナリス王国は多神教ではあるが、主神は女神だ。王家の始祖に女神の恵みが与えられ、その力で不毛な大地は豊饒の土地となり、ナリスが建国された。……一般的にもよく知られている神話だな」
「うん。……知ってる」
問題はそこではない。
そんな本に、何故あの紋章があるのか。
折り合いの悪い親戚の話なのだと思っていたが、よくわからなくなってきた。
それでも、不安と恐怖だけは一向になくならない。
そんな自分が理解できず、また不安になった。
「……それで、どうしたんだ?」
心配そうに覗きこむヘンリーの眼差しに、話してしまおうかという気持ちが湧いてくる。
だが、それも次の瞬間にはあっという間にしぼんでいく。
母と……イサベルと、約束したのだ。
だから、イサベルに話すまでは、ヘンリーに言ってはいけない。
行動の方向性が定まったことで、少しだけ心に余裕ができた。
「何でもないの。立ち眩んだみたい」
どうにか笑顔を浮かべると、椅子に座って紅茶に口をつけた。
「……そうか」
ヘンリーはぽつりと呟くと、イリスの正面に座る。
「もう遅いし、疲れただろう。イリスは寝室のベッドで寝てくれ」
「え?」
この家は、暖炉のあるこの部屋と、寝室の他には台所があるだけだ。
「ヘンリーはどうするの?」
「俺は、ここでいい」
こことは言うが、この部屋には暖炉とテーブルと椅子があるだけだ。
ソファーすらないのに、どうするつもりなのだろう。
「椅子を並べて寝るの? だったら、身長的に私がここで寝た方がいいから、代わるわ」
ヘンリーではどうやっても体がはみ出るだろうが、イリスなら何とか収まりそうだ。
毛布を借りてくるまれば、問題ない。
「いいよ、大丈夫。イリスは疲れただろうから、しっかり休んだ方がいい。それに、どちらにしても今夜は寝ないから」
「どうして?」
思いがけない言葉に驚くと、苦笑される。
「万が一にも襲撃されたら、厄介だからな」
「でも、ヘンリーも疲れているのに」
どちらかと言えば、謎の侍女業務をこなした分だけ、ヘンリーの方が疲れていそうだ。
「俺は大丈夫。二、三日なら徹夜しても問題ない」
衝撃的な答えだが、確かにカロリーナが以前そんなことを言っていたような気がする。
夜は遅くて朝は早いのに、徹夜しても平気とは。
モレノの習慣が恐ろしいし、やはりイリスにはついていけそうにない。
「明日には迎えも来るだろうし、イリスはしっかり休んで。それとも……添い寝してほしい?」
「――ひ、ひとりで寝る!」
慌てて椅子から立ち上がったイリスは、そのまま寝室に駆け込む。
背後で「おやすみ」という声が聞こえたが、とても返答する余裕はない。
閉めた扉に背中を預けたイリスは、そのままずるずるとしゃがみこんだ。
きっと、イリスを休ませるために言ってくれたのだ。
それはわかるけれど、言われた方は胸が苦しい。
「ベアトリスがあんなこと、言うから……」
『イリスという存在が欲しいのです。簡単に言えば……女性として』
ヘンリーに他意はないとわかっているのに、恥ずかしくて仕方がない。
そんな自分が更に恥ずかしい。
どうしたらいいのかわからず、腕をじたばたと動かしてウロウロと歩き回り……やがて諦めてベッドに潜り込む。
「寝よう。寝れば大抵のことは何とかなるわ。寝て、落ち着いて……お母様に聞いてみよう」
イリスはため息を一つこぼすと、そのまま瞼を閉じた。