そろそろ侍女を超え始めた気がします
「――ま、待って待って!」
慌てて止めるが、既にヘンリーはほぼ上半身裸。
細身だと思っていたら意外と筋肉がある。
これが馬鹿力の源かとまじまじと見てしまったことに気付き、すぐに視線を逸らす。
「何だ?」
「何だじゃないわ。何でここで脱ぐのよ。もっと、ひっそりと闇に隠れて脱ぎなさいよ」
「闇に隠れてって。……別に、全部脱がないから安心しろよ」
ヘンリーはそう言って脱いだシャツを絞ると、暖炉の前に移動する。
これは、寒いから暖炉のそばで脱がせてくれということか。
「わかったわ。私が出るから、どうぞ着替えて」
イリスは顔を背けながらじりじりと後退ると、扉を開けて別の部屋に逃げ込んだ。
何も考えずに入ったその部屋は、どうやら台所のようだった。
こぢんまりとしてはいるが、一通りの調理器具が整然と並んでいる。
この様子からして、それなりの頻度で使用されているのだろう。
タオルやら着替えやらが揃っているのもそのおかげだろうから、ありがたいことだ。
「イリス」
「きゃあ!」
急に扉を開けられて、びっくりしたイリスは悲鳴を上げてしまう。
「脅かしてごめん。……ここは寒いから、イリスはこっちに戻ってお茶を飲んでいて。体を温めないと」
「でも、ヘンリーが」
「悪いけど、後ろを向いていてもらえれば、さっさと着替えるから」
「そんなことするくらいなら、私が着替えた部屋を使えば? 温かいわよ?」
すると、何やらヘンリーが言い辛そうに言葉に詰まっている。
「いやでも。……干してある、だろう?」
干す。
ワンピースなら干してあるが、それが何だろう。
そう言いかけて、ふと先程の会話がよみがえる。
『早くしないと、中まで濡れるぞ。さすがに下着はないからな』
……これって、もしかして。
下着を干してあると思われているのだろうか。
「ワ、ワンピースだけだから! さっさと着替えてきて!」
イリスの迫力に圧されたのか、ヘンリーは大人しく扉の向こうに消える。
それにしても何ということだ。
まさか、下着を丸出しで干していると思われていたとは。
「……酷いわ。残念にもほどがあるわ」
仮に下着が濡れていたとしたら、いくらイリスだって淑やかに干す。
どうやれば淑やかなのかはよくわからないが、頑張って淑やかに干してみせる。
何だか恥ずかしいやら悔しいやら寒いやらで心が落ち着かない。
イリスはそろりと扉を開けて元の部屋に戻ると、少しぬるくなった紅茶を口にした。
「……あれ。私があっちの部屋に行けば良かった?」
そうすれば、この無駄な下着疑惑を向けられることもなかったのではないか。
簡単な解決策に気付いたが、少しばかり遅かった。
「これも、残念の弊害かしら」
イリスはため息をつくと、用意されていたお菓子に手を伸ばした。
簡素な生成りのシャツとズボンに着替えたヘンリーは、お茶を一気飲みするとすぐに動き始めた。
「それで、何で外に出ていたの?」
「馬車から荷物を取ってきた」
入口に置いてあったバスケットを見てみると、中には林檎やジュース、パンが入っていた。
「この嵐じゃ、今夜は助けも来ないし、動けない。紅茶と菓子だけじゃ味気ないしな」
「そのためにわざわざ?」
「イリスがお腹を空かせるのも、かわいそうだしな」
「ヘンリーの中で、私はどれだけ食いしん坊なのよ」
確かに日頃から肉を持ち歩いていることは多いが、別に空腹だから持っているわけではない。
あくまでも、残念の武器を掲げているのだ。
崇高な残念の象徴なのだから、自由の女神像の松明のようなものだ。
決して空腹の象徴ではない。
だが、ヘンリーは笑いながら台所に入って行ってしまう。
果物を切るのだろうかと思って待っていると、戻ってきたヘンリーは恐ろしいものを運んで来た。
バスケットに入っていたパンと果物とジュースは、わかる。
パンが香ばしく焼き上げられていて、林檎は美しく切られているが、まあわかる。
無駄に飾り切りされている気がするが、まあわかる。
わからないのは乾燥肉と乾燥野菜を使ったと思しきスープだ。
この短時間で火を起こしてパンを焼き、林檎を切ってスープを作ったらしい。
そろそろ、侍女を超え始めた気がする。
本当に、この侯爵令息はどこに向かっているのだろう。
「食べないと、冷めるぞ」
「……うん」
確か、急な雨に降られてこの家で雨宿りしたはずだ。
大雑把な括りでは、ちょっとした遭難に分類されてもいいと思う。
それが、このテーブルの上の華やかさは何だ。
料理もおかしいのに、テーブルクロスからナフキンまでしっかりと用意されているのだが。
カトラリーなんて、ピカピカに輝いているのだが。
これでは遭難感は微塵もなく、どちらかというとキャンプや旅行に近い。
何とも釈然としないままスープを口に運んで、イリスの動きが止まった。
「……美味しい」
「それは良かった」
乾燥肉と野菜の柔らかさも、程よい塩気も絶妙で、呆れてしまう。
本当に何になりたいのだ、この侯爵令息。
何もできていないので、せめて食事の後片付けくらいはしようと思ったのだが、それもあっさり断られた。
「台所は寒いから。イリスは本でも読んで待っていて」
そう言うなり、台所から追い出されてしまった。
何度か突撃しては押し戻されて諦めたイリスは、壁際の本棚に向かう。
何冊もの本が並ぶ中で、その本を手に取ったのは偶然だった。