残念で鈍感です
「まずは、お手伝い券の色々とやらを教えてくれる?」
お手伝い券自体には疑問を持っていない様子なので、やはり日本でのお手伝い券の知名度は高いようだ。
となると、それ以外の部分の説明になる。
「お手伝い券って書こうと思ったんだけど、こっちじゃ馴染みがないでしょう? 侍女に相談したらわかりにくいからって変更されて。『イリス・アラーナ命令権』になって」
ベアトリスの持つカップが、ガシャンと音を立ててソーサーに着地した。
「そうしたら、ヘンリーが攻撃的だったから無しにしようと思ったんだけど、返してくれなくて。ヘンリーの手から取り返そうと跳んでいる私の顔が、変で面白かったんじゃないかしら。券は使わないし、私が淹れた紅茶とその顔でいいって言われたの。意味がわからないでしょう?」
三人は目を細めすぎて、既に瞼を閉じていると言ってもいい状況だ。
暫しの沈黙の後、三人は一斉にため息をついた。
「……ヘンリー君、不憫」
「思った以上に、ヘンリー君は耐えているのですね」
「だいぶ抑制しなくなったと思っていたけど。……これじゃあ、仕方ないわね」
それぞれに呟くと、再びため息をついている。
「な、何? どうしたの?」
ベアトリスは立ち上がると、困惑するイリスの手を握って見つめる。
「いいですか? 目の毒の『見ると欲しくなるもの』は、イリスのことです」
「……え?」
ベアトリスの金色の瞳に吸い込まれそうになりながら、かろうじて声を出す。
「イリスという存在が欲しいのです。簡単に言えば……女性として」
――女性として。
ベアトリスの言葉に、瞼の奥を閃光が走る。
何かが割れるような、崩れるような、そんな音が聞こえた気がした。
次の瞬間、枷が外れた何かがイリスの中に溢れてくる。
記憶であり、知識であり、思考であるそれらの暴力的な量に、イリスは頭を抱えてうずくまった。
「イリス、大丈夫?」
友人達の声に応えようと深呼吸をして、かえって目が回りそうだった。
たぶん、これは代償にされていた羞恥心の欠片であり、記憶と知識。
「……戻った、と思う」
俯いたままどうにか絞り出した言葉に、三人が息を呑むのがわかった。
――ヘンリーが女性として、イリスを欲する。
それは当然であり嬉しいと思う貴族として生きてきた思考と、残念に浸りきった恥ずかしいという思考が混ざり合い、沸騰して、どうしたらいいのかわからなくなる。
「平安貴族なら」
「え?」
ようやく顔を上げたイリスに、三人の視線が集まる。
「御簾越しの対面だし。通い婚というのは、駄目かしら……」
泣き笑いのような状況でイリスが提案すると、目を丸くした三人が声を揃えた。
「――駄目」
当然と言えば当然の答えに、イリスの目には今度こそ涙が浮かんだ。
「ようやく、落ち着いたみたいですね」
半べそ状態のイリスは、ベアトリスに抱きついた形で頭を撫でられていた。
「大体、おかしかったのよね。イリスだってアラーナ家の婿を取るつもりだったんだから、結婚や恋愛に関する話がまったく頭に浮かばないはずがないのよ。残念で鈍感ではあっても、覚悟はあったんだから」
「そうね。いくら残念で鈍感でも、最低限のことは知っていたはずだわ」
「そんな風に言わないであげてください。確かにイリスは残念で鈍感ですが、記憶の代償のせいもあったのですから」
「……私が残念で鈍感なのは、よくわかったわ」
三人に立て続けに言われ、乾きかけた涙が復活しそうになる。
イリスはヘンリーと婚約した。
それはヘンリーの妻になるということだ。
そんな単純なことが、イリスの頭の中では何かに阻まれて上手く繋がっていなかった。
現在婚約者でいずれ妻になるのなら、イリスに触れるのもおかしいことではない。
感情としては恥ずかしいが、頭では理解できていたはずなのだ。
「でも、恥ずかしいものは恥ずかしいわ」
涙を堪えつつ、ベアトリスにしがみついたままで訴える。
「それは別に普通だし、少しずつ慣れればいいから大丈夫よ」
「そうそう。ヘンリー君がただのセクハラ野郎じゃなくて、婚約者として未来の妻を愛でているんだってわかっただけでも、良かったじゃない」
「セクハラ野郎……」
ダニエラの例えはイリスの中で妙にしっくりと馴染んだ。
今まではヘンリーが何故あんなに攻撃的なのかいまいち理解しきれていなかったので、まさに恐怖のセクハラ野郎状態だ。
だがそれもダニエラの言う通りなら、スキンシップを取っていただけなのだ。
好意ゆえの行動だと思えば、多少は恐怖も和らぐ。
……ちょっと、やりすぎな気もするが。
「それにしても、どうしてイリスはこんなに記憶の代償を取り戻すのが遅かったのかしら?」
「そうですね。何か魔力を留めたり歪めたりすることがあったのなら、影響が出てもおかしくありませんが」
「……どういうこと?」
魔力と言えば、イリスは氷の魔法として隙間の凍結をしているが、あれが関係しているのだろうか。
「例えば暗示をかけられているというのなら、互いの魔力が干渉してそういうことが起きてもおかしくはありません。……だから、さっき私がイリスの目を見て話したんです」
「バルレート公爵家は王家に特に近しい血筋で、魔力が強いから。記憶の代償が戻るのに邪魔な魔力があるのなら、整えてもらおうと思ったの」
カロリーナの説明にベアトリスを見上げると、優しく微笑みを返してくれる。
魔力云々はよくわからないが、確かに癒されているのは間違いなかった。
「……何かが干渉していたのだとしたら、それは何だったのかしら」
魔力で暗示と言えば『モレノの毒』が真っ先に思い浮かぶ。
実際に『モレノの毒』は盛られたが、そもそもそれ以前から羞恥心は取り戻しきれていないのだから、関係はなさそうだ。
「……まあ、戻って良かったわね」
ダニエラはイリスの頭を撫でると、にこりと微笑んだ。
「良かったのかしら」
すっきりしたような、かえって難しくなったような、複雑な思いだ。
「怯えることも減るだろうし、少なくともヘンリーは喜ぶと思うわよ?」
「そう、かしら」
カロリーナの言葉を疑うわけではないが、まだ心が追い付かない。
「……ゆっくり考えなさい。ヘンリー君は、イリスのためなら待ってくれますよ」
微笑むベアトリスに、イリスはうなずくしかなかった。