イリス・アラーナ命令権
「……一日違いだったのね」
「俺も知った時にはびっくりした」
紅茶のカップを置くと、ヘンリーはじっとイリスを見つめる。
「それでイリス。誕生日のプレゼント、何か欲しいものはある?」
「え?」
「せっかくだから、イリスの欲しいものをあげたいんだ。本当はもう少し早くに聞いて、用意出来れば良かったんだけど。仕事が立て込んでいたんだ。ごめん」
「寧ろ、チャンス」
「何だ?」
「何でもない」
うっかり口から出た本音を誤魔化しつつ、イリスは咳ばらいをした。
「あの、私も何も用意できていないの」
「それは、昨日知ったばかりならそうだろうな。別に気にしなくていいよ。イリスに祝ってもらえるなら、十分だ」
「それで、あの。誕生日プレゼント、いらないから。だから、ヘンリーへのプレゼント、これで勘弁してほしいんだけど」
「勘弁って。……別に、無理に用意しなくていいぞ」
テーブルの上に封筒を乗せると、ヘンリーの方へ指で押す。
「……何だ、これ」
封筒を手にしたヘンリーは、訝し気に見回すと、そのまま開封し始める。
「花とか既製品とかお菓子なら、用意できたんだけど。それも何だかつまらないし。せっかくだから面白いかな、って」
封を開けて中の紙を取り出したヘンリーが、目を瞠って固まった。
暫く動かずにいたヘンリーは、紙をイリスの方に向けて見せる。
「……これ、本気?」
ヘンリーが手にした紙には『イリス・アラーナ命令権』と書いてある。
「肩たたき券みたいなものよ」
「何だそれ?」
「前の世界でね、両親に感謝する日があって。肩たたきをする券よ。お手伝い券とかもあるけれど。それで、ヘンリーに何がいいのかと思って、肩たたきで喜ぶかわからなかったし。私がお手伝いする券ということにしたの」
「……それで、何で『命令権』?」
「え? 別にお手伝い券で良かったんだけど。プレゼントなんだから私の名前を入れた方がいいし、わかりにくいから命令権の方がいいって、ダリアが」
この世界に肩たたき券は存在しないようなので、ヘンリーにも伝わるようにしたのだ。
「あー……」
ヘンリーが何やらがっくりと肩を落としている。
心なしか顔が赤いが、何かあったのだろうか。
「……おまえの侍女、どれだけ優秀……」
ヘンリーが何か呟いているが、よく聞き取れない。
「何? どうしたの?」
「……おまえ、意味がわかって、これを渡している?」
質問の意味が理解できず、イリスはきょとんとする。
「意味って。ヘンリーのお手伝いでしょう?」
「この文面じゃ、イリスを自由にしていいと受け取られるぞ」
「別に、自由に命令してもらっていいわよ? その通りできるかは、わからないけれど。掃除でもする? 何を手伝うにしても、一生懸命やるわ」
そもそも、大抵のことを一通りできる侯爵令息の何を手伝うのかよくわからないが、掃除や買い出しくらいなら何とかなるだろう。
またイニシャルを刺繍しろと言われたら、恥ずかしいがそれも頑張ろうと思う。
「違う、そういう意味じゃない」
深い深いため息をつくと、ヘンリーはイリスを見据えた。
「俺の命令に従うってことだろう? 例えば俺に抱きつけとか、キスしろって言ったらどうする?」
「え?」
まったく予想もしなかった言葉に、イリスは固まった。
「イリスに命令する権利、だろう? 拒めないぞ」
にやりと微笑む姿に、ヘンリーが何を言っているのかようやく理解する。
「そ、そういうつもりじゃ。これは、お手伝い券で」
「でも、『イリス・アラーナ命令権』だな」
ヘンリーは楽しそうにひらひらと紙を揺らした。
「――な。だ、駄目。やっぱりなし!」
慌ててソファーから立ち上がると、ヘンリーから紙を取り上げようとする。
だが、ヘンリーも立ち上がって手を上げられれば、どうしようもない。
ぴょんぴょん跳んで紙に手を伸ばしても、まったく届かないどころか、かすりもしない。
そもそもイリスとヘンリーでは身長差があるし、こちらは簡素とはいえドレスにヒールなので動きづらい。
何度跳んでも紙どころかヘンリーの手に触れることもできない状況に、イリスの困惑は深まるばかりだ。
何故こんなことになったのだろう。
お手伝い券のはずだったのに、いつの間に攻撃を許可する内容になってしまったのか。
どうしたらいいのかわからず、恥ずかしくて、目に涙がにじんでくる。
「ヘンリー……」
涙を堪えつつ、返して欲しいと目で訴えると、ヘンリーは苦笑してイリスの頭を撫でた。
「……冗談だよ。大丈夫。そんなことしない」
ヘンリーの一言で、一気に視界が開けたような気がした。
「本当?」
「ああ」
微笑んでうなずくヘンリーを見て安心すると、イリスはソファーに座って小さなため息をついた。
「……じゃあ、別なプレゼントを用意するわ」
「いや、俺はこれでいいよ」
そう言って隣に座ったヘンリーに、イリスは手を差し出した。
こんな危険物は、早急に回収処分しなければ。
「捨てるから、返して」
「それは駄目。イリスが作ってくれたんだから、貰う」
「使わないのに?」
「うん」
少し警戒したが、ヘンリーはあっさりとうなずく。
やはり、もう攻撃に使う意思はないらしい。
だとすると、ただの妙な紙でしかないのだが、どうするのだろう。
「明日は一日抜けられない仕事があるから、会えないんだ。ごめん。今度、一緒に出掛けよう」
「あ、うん。お仕事大変ね」
「仕事と、私用も兼ねている。……リリアナを唆した奴のこと、覚えている?」
「私に悪意が向くよう仕向けているっていう?」
たしか、アイナ・トレント伯爵令嬢にも接触して、イリスを襲撃させていたらしいが。
「その関係。……それより、今日はイリスが紅茶を淹れてくれる? イリスへのプレゼントは、少し待っていて。俺へのプレゼントはイリスが淹れた紅茶と、さっきの顔でいい」
「顔?」
さっきというのは何だろう。
必死に飛び跳ねている時の顔が、よほど面白かったのだろうか。
首を傾げるイリスの頭を撫でる手つきは優しくて、どうやら御機嫌らしいことはわかる。
よくわからないままにティーポットを持つと、紅茶の用意を始める。
ヘンリーと同等のレベルは無理だとしても、できるだけ美味しくしたい。
図らずもヘンリー除けクッキーのために苦い紅茶を追求したので、紅茶を不味くする手順は熟知している。
それを逆に利用すれば、美味しい紅茶になるはず。
そう、やるならとことんなのだ。
「……今は使わないよ。今は、ね」
紅茶に集中するイリスには、ヘンリーの呟きは届かなかった。