俺を、頼れ
春の舞踏会が、いよいよ明日に迫った。
準備のために、学園は午前中で終わり。
今回もちゃんと骨付き肉をお願いしておいたので、武器の準備もばっちりだ。
「あの、イリス・アラーナさんですよね。これ、預かってます」
満足して帰ろうとするイリスに、見知らぬ女生徒が封筒を差し出してきた。
怪しい。
だが、受け取らなければ、逃避したことになる。
『碧眼の乙女』から逃避すれば、それはイリスの負けだ。
イリスが仕方なく受け取ると、女生徒はほっとした顔で立ち去って行った。
裏庭で待っています、と書いてあるカードが入っているだけで、名前も何も書いてない。
怪しさしかないカードを握りしめ、イリスは思案した。
これはきっと、セシリアの手先になったクララが、イリスを亡きものにしようとしているに違いない。
いや、それなら牢の中じゃないとシナリオ通りにはならない。
どうせ既にズレが生じているから、イリスがいなければそれでいいのだろうか。
それとも、転生者などいなくて、ゲームの強制力が働いているだけなのか。
考えるほどに思考はぐるぐると巡り、こんがらがっていく。
「よくわからないけれど、行くしかないのよね」
「――どこに行くんだ?」
裏庭に向かって足を出すと、背後からヘンリーに声をかけられた。
「誰かが裏庭にいるらしいから、ちょっと行ってくるわ」
カードをひらひらと振ると、ヘンリーがため息をつく。
「危険があると言ったのはイリスだろう? 呼び出されてわざわざ行くとか、馬鹿なのか」
怒ってはいるが、心配してくれているのだ。
それは、わかる。
だが、イリスには引けない理由がある。
「回避も逃避も応援も駄目なんだから、仕方ないじゃない。私に残されているのは、応戦することだけなのよ」
ヘンリーが不可解な面持ちでイリスを見ている。
彼は『碧眼の乙女』のことなど知らないのだから、当然だ。
行かなくて良いのなら、どんなに楽だろう。
でも、それを選択すれば、イリスは死から逃れられない。
行っても死ぬかもしれない。
八方塞がりだ。
イリスは震える拳をぎゅっと握りしめた。
「なら、俺も一緒に行くよ」
「危険かもしれないから、いいわ。私一人で行く」
イリスの言葉に、ヘンリーの表情が険しくなる。
「だったら、俺がいた方が安全だろう? イリスよりは剣が使えるし、魔法だって少しは使える。女のイリスよりも力もあるし、体力もある」
何故か悲痛な面持ちのヘンリーは、絞り出すように叫んだ。
「少しは周りを――俺を、頼れ」
「……頼る」
それは、イリスにとってありえないことだった。
応戦しなければ死ぬとわかって。
どこにあるとも知れない天との戦いに、ずっと気を張ってきた。
友人達は助けてくれるけれど、戦いを終えて生き延びた友人達を危険に晒すわけにはいかないから。
友人達を本当の意味で助けられなかった負い目もあるから。
全面的に頼ることなんて、できなかった。
最後は自分一人で戦わなくてはいけないのだと、ずっと思っていたのに。
ほろりと、ひとしずくの涙がこぼれた。
……本当は、怖くてたまらない。
どんなに頑張っても無駄かもしれない。
この世界は、イリスの死を前提に動いているのだから。
それこそが正義で、正しい道。
イリスが生き残ろうとすること自体が、間違いなのかもしれない。
でも、死にたくなくて。
「……だって、頼ったら迷惑をかける」
「迷惑かどうかは、俺が決めることだろう」
涙をこぼすイリスに、ヘンリーは苦々しく笑った。
「カロリーナの言う通りだったな」
「何?」
「剣と一緒に手紙が入ってたんだ。『イリスは助けてなんて、きっと言わない。だから、助けてあげて』って」
遠くにいる友人の言葉に、イリスの頬を伝う涙が止まらない。
苦しくて、嬉しくて。
イリスはその場でうずくまって、声を殺して泣いた。
悪役令嬢に転生したと知って以来、初めての涙。
ずっと張り詰めていたものが緩く溶けていく感覚は、心地が良い。
そうして涙が枯れるまで、ヘンリーは背中をさすってくれた。
人前で泣いたのなんて、一体いつぶりだろう。
――とりあえず、恥ずかしい。
気まずくて視線を合わせられずにいると、ヘンリーの両手に顔を挟まれ、無理矢理目を合わされた。
「何で、目を逸らすんだよ」
「だって、恥ずかしいもの見せちゃったし。申し訳なくて」
イリスの目と鼻の先にある整った顔立ちの少年は、息をつくと、イリスの顔を離した。
「だから、申し訳ないとか考えなくていいんだよ。迷惑なら言うから、頼れって」
「でも、ヘンリー優しくて面倒見が良いから、いっぱい世話を焼くでしょう? だから」
「俺、別に面倒見が良いわけじゃないぞ」
あれだけイリスの面倒を見ておいて何を言うのか、この面倒見の鬼は。
無自覚なのか、この面倒見の鬼は。
「誰にでも優しくするほど、良い奴でもないしな」
「じゃあ、何で私に沢山協力してくれたの? カロリーナに頼まれたからでしょう? それって、面倒見が良いって言うのよ」
「頼まれたって、嫌なら断るよ。俺がしたいと思ったから、協力しただけだ」
確かに、ヘンリーは王子の依頼すら断っている。
何でも引き受けるわけではないのだ。
「でも。じゃあ、何で?」
ヘンリーは首を傾げるイリスの頭をぽんぽんと叩いた。
「……残念な御令嬢には、わからないだろうな」