私が男だったら
翌日、イリスはヘンリー除けのクッキーを持って、意気揚々とモレノ邸に向かった。
「ヘンリー様はもうすぐお戻りになる予定です。カロリーナ様のお部屋でお待ちになりますか?」
「うん。カロリーナの邪魔にならないなら、そうするわ」
使用人に案内されて扉を開けると、そこには美しいベールをまとったカロリーナの姿があった。
「カロリーナ、すごく綺麗!」
嬉しくなって駆け寄ると、カロリーナが笑みを返した。
白いチュール生地は端が植物の蔓のようなデザインで囲まれていて、時折蔓の先からこぼれるように小さなビーズの花が咲いていた。
「これ、結婚式のベールでしょう?」
「そう。今は、私の身長に合わせてベールが最も美しく見えるように細かい調整中なの」
調整中というだけあって、カロリーナが着ているのは婚儀のためのドレスではない。
だが、ベールだけでも凛とした美しさが倍増しているのだから、当日のカロリーナは光り輝くような美しさになるのだろう。
「刺繍が細かくて綺麗ね。でも派手すぎなくて、カロリーナにぴったりだわ」
何よりも、長身のカロリーナとロングべールの相性が素晴らしい。
「ありがとう。イリスもつけてみる?」
「やめておくわ。私じゃ、長さのバランスがおかしくて、せっかくの刺繍がもったいないもの」
こういう時に、もう少し身長が欲しいと思うが、仕方のない話だ。
「似合うと思うけど。イリスの時には、お母様が興奮しそうよね。あんまり変なリクエストをされたら言ってね? 断っていいのよ?」
カロリーナが心配しているのは、ファティマの残念ドレス愛好家としての部分だろう。
だが、イリスとしては変なリクエストとやらにも少し興味があったので、曖昧に返答しておく。
「……もうすぐカロリーナはお嫁に行っちゃうのね。寂しいわ」
何だか姉が嫁入りするような心境だ。
相手はイリスも知っているシーロなのでその点は安心だが、寂しいことに変わりはない。
「モレノのお屋敷に来てもカロリーナがいないなら、意味がないわ。オルティス公爵家に遊びに行っても、シーロ様は怒らないかしら」
「イリスなら、いつでも大歓迎よ。もちろん、シーロ様もね」
「じゃあ、オルティスに行く! カロリーナに会いたいもの」
「なんて可愛いことを言うの? もう、連れて行っちゃおうかしら」
嬉しくなって微笑んだイリスを、カロリーナがぎゅっと抱きしめた。
「……何をしているんだ?」
落ちついた声の主は、扉の前に立ってこちらを見ている。
思ったよりも早い標的の登場にイリスが驚いていると、カロリーナが抱きしめる腕に力を込めた。
「羨ましい?」
「ああ」
……何の会話をしているのだ、この姉弟。
「イリスが来たって聞いたけれど、カロリーナに会いに来たってことか?」
少しがっかりした様子のヘンリーを見て、何やらカロリーナはにやにやと笑っている。
「私が男だったら、イリスは私が娶ったわ、きっと。……危なかったわね?」
「はあ?」
「ね、イリス?」
笑顔のカロリーナと渋面のヘンリーに同時に視線を向けられ、暫し考える。
カロリーナが男だとするとモレノの嫡男ということになるが、弟のヘンリーがいるのでアラーナ家に婿に来てもらえるかもしれない。
そう考えると、悪くない。
そもそもカロリーナだったら、ヘンリーのように攻撃的ではないだろう。
「……そうね。カロリーナのこと、好きだもの」
イリスの返答を聞いたカロリーナはイリスの頭を笑顔で撫で、ヘンリーは眉間の皺を深めている。
この質問は何なのだろうと思っていると、カロリーナが堪えられないと言った様子で笑い出した。
「あんたもそんな顔するのね。――安心して。私が男だったら、アラーナのおじさまにさっさと弾かれているだろうから」
「それ、安心することなの? 弾くって、何?」
「いいのよ、気にしないで。ヘンリーも、機嫌を直しなさいよ。イリスはあんたに用があって来たらしいわよ?」
そうだ。
ヘンリー除けを試しに来たのだった。
うっかり、本来の目的を忘れかけていた。
「ヘンリー、ちょっと口を開けて」
「口?」
イリスは持ち歩いていた包みからクッキーを取り出すと、有無を言わさずヘンリーの口に突っ込んだ。
ヘンリーは特に抵抗することもなく、そのままもぐもぐと咀嚼している。
「どう? どう? 酷い? 酷いわよね?」
感想を待ちきれないイリスは、期待に満ちた眼差しでヘンリーを見つめる。
「そのクッキー、何なの?」
不思議そうにカロリーナに問われるが、答えが難しい。
ヘンリー除けのために可能な限り苦くした紅茶で、口中の水分を奪い取るもさもさクッキーを作りました、とは言えない。
どうにか、言える部分をつなげて説明を試みる。
「ヘンリー、ため、紅茶、クッキー、作った」
「……何で片言なの?」
「色々と、都合が」
イリスが言葉を濁している間に咀嚼を終えたヘンリーが、静かに紅茶を飲んでいる。
「どうだった? 酷い? つらい?」
苦情を言われる気満々のイリスだったが、当のヘンリーは涼しい顔だ。
「そうだな。ちょっと大人の味、かな」
そんなわけがない。
あんなに渋い大人がいてたまるか。
これは、面倒見の鬼の面倒見が発動しているに違いない。
「気を使って回りくどく言わなくていいの。まずいわね? 正直、つらいのね?」
「……何で楽しそうなんだ」
「いや、その。正直な意見を聞きたくて」
いけない。
これでヘンリーを除けられると思ったら、顔が緩んでしまう。
ヘンリーは訝し気にイリスを見るが、やがて諦めたように小さく息をついた。