番外編 タマラのお節介
「イリスだよ。ヘンリーの『毒の鞘』になる子だ」
先代モレノ侯爵夫人であり、現在唯一の『毒の鞘』であるドロレスがそう言うと、タマラをはじめ、皆が息を呑む音が聞こえる。
艶やかな黒髪、煌めく金の瞳、滑らかな白い肌、小柄で華奢な体つき、そして可愛らしく整った顔立ち。
イリスと呼ばれたその少女は、誰がどう見ても紛うことなき美少女だった。
使用人達はざわついた。
ヘンリー・モレノはモレノ侯爵コンラドの嫡男で、次期当主。
そして、『モレノの毒』の継承者だ。
彼の『毒の鞘』になるということは、ただの伴侶になることとは意味がまったく異なる。
自身も狙われるし、『鞘』としての務めもある。
控えめに見積もっても、体力、武力は欲しいところだ。
だが、目の前の少女はどうだ。
どう見てもか弱そうだし、剣もろくに持てそうにない。
外見だけは文句なしだが、裏を返せばそれ以外はすべて怪しい。
――この少女で、大丈夫だろうか。
『モレノの宿』の使用人の心が、一つになった瞬間だった。
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「イリスは、そのまま部屋に連れて行く。打ち身や捻挫に効く軟膏を用意してくれ」
ヘンリーは黒髪の少女を抱えながらそう言って、屋敷の奥へと進んで行く。
ちらりと見ると、イリスは意識を失っているようだった。
――本当に、大丈夫だろうか。
何があったのか詳しくは知らないが、一度の襲撃でこれでは先が思いやられる。
使用人達の心は、イリスの心配というよりは、新しい『鞘』への不安の方が大きかった。
「タマラ、ヘンリー様がお呼びだ。イリス様の手当てと着替えを」
最年長でこの『モレノの宿』の支配人である男性に言われ、返事と共にイリスが使う部屋に向かう。
手当てと着替えということは、部屋にいるのはイリス一人だろう。
そう思って軽い気持ちで扉を開けたことを、盛大に後悔する羽目になった。
ベッドに横たわるイリスと、その傍らに座るヘンリーがいる。
まさかヘンリーがいるとは思わなかったので驚いたが、それ以上にタマラの視界に入ったものは衝撃だった。
ヘンリーはシーツに広がる艶やかな黒髪を一房手に取り、そこに口づけを落としていた。
その光景が一幅の絵画のように、あまりにも美しくて。
もう、ちょっとした心臓発作が起こったと言っても良い。
タマラは一瞬、呼吸ができなくなった。
ヘンリーは山のような縁談を華麗に蹴散らし続け、浮いた噂もまったくなかった。
それは女性に興味がないのではなく、自身とその伴侶に求められるものを十分に理解しての行動だと、皆知っていた。
縁談を勧める先代当主ロベルトの気持ちもわかっていただろう。
だが、少なくともヘンリーは好いた惚れたで伴侶を選ぶような浅慮をするとは到底思えなかった。
それが、どうだ。
女神と信奉者と言っても過言ではない様子に、見ているこちらが混乱してしまう。
「……ああ、来たか。肩と背中を傷めている。それから、着替えを頼む」
タマラに気付いたヘンリーが、何事もなかったかのように指示を出す。
努めて冷静に返事をしたつもりだが、とりあえずイリスの髪から手を離してほしい。
無駄な色気を振りまかないでほしい。
とにかく仕事をしようとイリスに近付くと、腕には包帯が巻いてある。
寸分の狂いもない美しい巻き方は、多分ヘンリーによるものだ。
ということは、腕の手当ては使用人ではなくて彼自身がしたのか。
「……ヘンリー様が腕の手当てをなさったのですよね?」
「ああ」
「でしたら、何故私をお呼びに?」
未婚の男女とはいえ、彼らは婚約者同士だ。
傷の手当てで少しの肌を見せたところで、問題ない気がするのだが。
少なくとも、モレノの関係者でそれを悪く言うものはいないだろう。
どちらかと言えば、推奨し、応援しかねない。
だが、ヘンリーはイリスの髪から手を離すと、何やら気まずそうにしている。
「イリスが驚くだろうし、知らぬ間に見られたら嫌だろうし。……耐えられるか、自信がない」
「――青春か」
思わず、タマラの口から本音がこぼれた。
「も、申し訳ありません。つい、うっかり、正直に」
ヘンリーは渋面のまま、深いため息をつくとベッドの端から立ち上がった。
「後は、頼む」
一言そう言って、イリスを見ると、ヘンリーは部屋を出て行った。
残されたのは、ベッドの上の眠れる美少女と、タマラだけ。
「……まさか、あれほどとはねえ」
弟から、イリスに対するヘンリーの様子は聞いていた。
それでも今までのヘンリーを知っている者が見たら、開いた口が塞がらなくなること請け合いだ。
この少女で大丈夫だろうかと心配したものだが、少なくともヘンリーを癒すという意味では間違いなく役立っているのだろう。
タマラはため息をつくと、ベッドの上の黒髪の少女に視線を移す。
「最愛の恋人で、婚約者で、女神様……ってところかな」
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久しぶりに『モレノの宿』を訪れたイリスは、両手に骨付き肉を持っていた。
まったく経緯が理解できず、使用人達は混乱した。
支配人が体調を聞いているが、聞くべきところはそこではない気がする。
骨付き肉から目が離せない使用人達に、体調を気遣われたイリスが微笑んだ。
「大丈夫、元気よ。――ありがとう」
掛け値なしの美少女の、屈託のない微笑み。
使用人達は目を瞠り、息を呑んだ。
タマラの隣の新人君に至っては、胸を押さえている。
どうやら、見えない何かで撃ち抜かれたらしく、苦しそうで幸せそうだ。
さすがはあのヘンリーの婚約者。
まさかの方向で抜群の攻撃力だ。
使用人を撃ってどうするとは思うが、人心は掌握して損するものではない。
少なくとも新人君は、イリスのための労力を惜しまないだろう。
人を使う才能、人が付き従いたくなる才能。
上に立つ者なら、必要な能力だ。
結局何故両手に骨付き肉を持っていたのかはわからず仕舞いだったが、タマラの中で少しばかりイリスの評価が上がった。
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「イリス様とヘンリー様は仲睦まじくて。私共も嬉しくなります」
「ええ?」
肩の手当をしながら、タマラは微笑む。
前々回は意識を失って運ばれ、前回は両手に骨付き肉を持ち、今回は毛布でぐるぐる巻きにされていた。
イリスは普通に訪れることはないのだろうか。
だが、ヘンリーが大事そうに運んでいるのを見るだけでも、こちらとしては何だかほっこりと心が温まる。
しかし、当のイリスはどうやらヘンリーに愛されている自覚が乏しいようだ。
「いえ、何でもないわ。……な、仲睦まじく……見えるの?」
「きっと、この手当てもご自分でなさりたかったでしょうね」
言うまでもないことを聞いてきたので、肯定しつつ更に付け加える。
青春ですね、という言葉も危うく出そうになったが、そこは何とか堪えた。
「でも、目の毒って言われたわ。毒物扱いよ」
不本意そうに呟くイリスを見て、タマラはちょっと驚いた。
ヘンリーの青春な台詞が、さっぱり伝わっていない。
どうやら、見たくないとか、見ると害がある、という意味でとらえているらしい。
そんなわけがあるはずもない。
彼の意思を汲み取って訳せば、『手を出したくなるから、危ない』だと思う。
あれだけいちゃついておいて、どうやらイリスはヘンリーの想いに鈍感らしい。
ヘンリーが伝えたかったかどうかはわからないが、ここまで伝わっていないのも何だか不憫だ。
「……なるほど。これでは、ヘンリー様も自重するしかありませんね」
思った以上にイリスは鈍感で、箱入り娘だ。
これでは迂闊に手を出せまい。
ことさら大事にしている様子からして、きっと無理強いもしないだろう。
それはそれで微笑ましいが、このままではどうかとも思う。
タマラは長年ヘンリーを見てきた者として、ちょっとお節介を焼きたくなった。
「……イリス様。目の毒、という言葉は見ると害になる以外にも意味があります」
「そうなの?」
「はい。――見ると欲しくなるもの、です」
「……え?」
やはりよくわかっていない様子のイリスを残すと、タマラは部屋を出る。
「……青春ねえ」
これは、しばらく退屈しないで済みそうだ。
タマラは鼻歌を歌いながら、仕事場へと戻った。