番外編 ビクトルの被害
「イリスは絶対に外に出るな」
返事をする間もなく、ヘンリーが飛び出して行く。
その扉を素早く閉じたビクトルは、そのまま鍵をかけた。
「外は心配ありませんので、イリス様はここからお出にならないでください」
「……うん」
イリスはうなずくと、大人しく座っている。
以前にも襲撃に遭っているとはいえ、その落ち着きがビクトルには意外だった。
悲鳴を上げて騒がれても面倒だが、普通の御令嬢ならそれでもおかしくない。
怯えて動けないのかと思えば、そういう風でもない。
まるで、命を狙われることに慣れているような。
……いや、そんなはずはないから、ビクトルの考え過ぎだ。
イリスは残念な令嬢だから、危機感が薄いだけなのだろう。
そう結論づけると、すぐに頭を切り替える。
ある程度情報を絞っていたのに襲撃されたということは、この範囲では情報を集める伝手があるということだ。
幾度か同様のことを繰り返すことによって、ある程度相手はわかってきている。
もう少しではっきりするだろう。
その時、何かが軋む音が聞こえた。
それと同時にガラスが割れた音が響き、伸びた手がイリスの左腕をとらえた。
「イリス様!」
「――動くな」
扉の向こうから響く声に、ビクトルの動きが止まる。
割れた窓ガラスから突き出た手はイリスを扉に引き寄せ、同じくガラスから飛び出す刃物がイリスの首筋に突きつけられている。
これは、迂闊だった。
今回はヘンリーが同行しているからと、油断した。
手元に短剣はあるが、イリスが捕まった状態で窓の隙間から相手を狙えるほどの腕はない。
そもそも、ビクトルは武力で補佐官になったわけではない。
モレノの家業に合わせてそれなりには剣を使えるようになったが、あくまでそれなりだ。
イリスに傷を負わせずに剣を使うのは困難だろう、と自分でもわかる。
「扉の鍵だ。おまえが開けろ」
そう言って、男は掴んでいるイリスの腕を捻り上げる。
イリスの口から声が漏れ、ビクトルの眉間に深い皺が刻まれた。
相手がイリスを判別しているのかは、わからない。
だが、現状からして、少なくとも無傷で攫うつもりはないのだろう。
ただでさえ小柄で華奢で体力のないイリスでは、少しの暴力でも大怪我になりかねない。
ここで抵抗するよりも機会を窺った方が良い。
「……イリス様、開けてください」
左腕を捻られて苦痛に顔を歪めながらも、イリスは声を漏らすまいと耐えている。
……何故、耐える必要があるのだ。
馬車の中にはビクトルがいるし、外にはヘンリーもいる。
助けを求めれば良いだろうに。
泣きもせず、怖気づくこともない様子に、ビクトルの疑問は増すばかりだ。
「でも」
促してもなお、迷うイリスに、ビクトルの中に怒りにも似た感情が湧く。
ヘンリーが常日頃『俺を頼れ、と言っているのに』と呟いている意味がわかった。
本当に、その通りだ。
もっと周囲を頼れば良いのに、一体何と戦っているのだ。
イリスが頼れないというのなら、ビクトルはお膳立てをするだけだ。
馬車の外にはヘンリーがいる。
彼が気付けば、大抵のことは何とかなる。
「今、開けます。大人しくします。だから彼女の手を捻るのはやめてください」
――いいから、ヘンリーを頼れ。
ビクトルは声には出さずに、イリスにそう告げた。
********
「……イリス、どういうつもりだ」
ヘンリーの低い声が馬車の中に響く。
「休憩よ。リハビリにだって、お休みが必要だわ」
ビクトルの隣を陣取ったイリスは、正面のヘンリーに訴えている。
リハビリとは何だろうと思いはしたが、残念なイリスの言う事なので深く考えない方が良いだろう。
とりあえず現状で問題なのは、イリスがビクトルの隣に座っていることだ。
馬車に乗った時点では、イリスはヘンリーの隣にいた。
正確には、イリスの隣にヘンリーが座ったわけだが。
いちゃつく様を凝視する趣味はないので窓の外を眺めていたのだが、何やら揉めている。
それでもどうせ痴話喧嘩だろうと放っていると、イリスがビクトルの隣にやって来たのだ。
――これが世に言う、青天の霹靂だ。
「わかった、善処する。とりあえず、こっちに戻れ」
「やだ。信用ならないわ」
ヘンリーが伸ばした手から逃れるように、ビクトルの背後に隠れようとしている。
ビクトルは普通に座っているので、背後に隠れるというよりは背中にくっつく形だ。
「おまえなあ……。いつまでそうしているつもりだ」
「このまま到着するまで避難するわ。ここが唯一の安全地帯だもの」
絶対に動かないと言わんばかりにビクトルの腕にしがみつくイリスを見て、ヘンリーの眉が顰められた。
「……イリス様。私は今、最前線で死にそうなのですが」
「じゃあ、私と一緒ね。共に生き抜きましょう、ビクトル」
身の危険を訴えたのだが、さっぱり伝わらない。
それどころか、腕にしがみついたままビクトルを見上げてきた。
腕に当たるものの感触も、美少女の上目遣いの威力も凄いが、それよりも正面からの例えようのないプレッシャーが凄い。
「……ビクトル、具合が悪いの? 大丈夫?」
「いや、イリス様が戻ってくだされば問題は……」
すべての原因である美少女は首を傾げると、その手を伸ばしてビクトルの額に触れる。
やめてほしい。
ヘンリーを逆なでするようなことばかり、しないでほしい。
ビクトルの隣に移動してきた時点で、ヘンリーの御機嫌は決してよろしくない。
その上、ビクトルの腕にしがみつき、上目遣いで額に触れている。
普段ヘンリーにすらしがみつくようなことはない癖に、何故今日に限って。
どんどん強まるプレッシャーに、ビクトルの顔も強張る一方だ。
「熱はないみたいだけど。無理しちゃ駄目よ?」
「……そう思うなら、どうか戻っていただきたく……」
「イリス、戻れ」
「やだったら」
ヘンリーと暫しにらめっこをしたイリスは、ビクトルの腕を抱えたまま窓の方に顔を逸らした。
かと思えば、うとうとと居眠りを始めた。
本当に、破格の体力のなさだ。
「……ビクトル」
「すみません。私のせいじゃないです。すぐに代わりますから、本当に勘弁してください」
矢継ぎ早に謝罪するビクトルを冷めた表情で見ると、ヘンリーが立ち上がる。
イリスを抱え上げると元の席に戻し、その頭を抱えるようにしてもたれさせる。
艶やかな黒髪を撫でていると落ち着いたらしく、痛いほどのプレッシャーも消えてきた。
どれだけ大切なんだよ、と突っ込みたくもなるが、命取りになりかねないので今はやめておく。
ビクトルの恐怖も落ち着くと、ふと気になっていたことを思い出す。
「襲撃の際に、気になったのですが。イリス様は泣くこともなければ、怯えるという感じもありませんでした。まるで、慣れているかのようで。……あれは、危機感が薄いからでしょうか。それとも」
「……ああ。命の危険という意味では、初めてではないのかな」
それは、どういう意味だろう。
モレノの人間ならともかく、普通の伯爵令嬢が命の危険を感じるようなことに遭遇するとは思えないが。
気にはなったが、ヘンリーの態度からしてこれ以上は話すつもりがないとわかる。
ただの残念な美少女だと思っていたのだが、意外と色々あるのかもしれない。
「……それで、ビクトル。イリスにしがみつかれて、どうだった?」
「いや、思った以上に弾力が……」
軽い口調につられて、言ってはいけないことを口にしたと気付いた時には、既にヘンリーが良い笑顔を向けていた。
「へえ。弾力。……それで?」
「い、いえ。特に何も」
「イリスにしがみつかれて、弾力を楽しんで、上目遣いを堪能した上に、額まで触られて。……良い身分だな」
不可抗力だろうと言いたくなったが、ヘンリーのあまりに良い笑顔に言葉が出ない。
「虫退治」された数多の男性も、きっとこんな気持ちになったのだろう。
まさに、触らぬイリスに祟りなし、である。