番外編 ビクトルの冷汗
「付き合ってくれてありがとう、ビクトル」
「いえ。大した距離ではありませんし、構いません」
ビクトルは笑顔を返しながら、イリスの隣を歩く。
イリスは、ビクトルの主人であるヘンリーの婚約者だ。
黒髪に金の瞳の文句なしの美少女ではあるが、残念とかいう謎の生き様のせいで妙な恰好をしていることが多い。
今日はヘンリーの姉でイリスの友人であるカロリーナの所に遊びに来ていたのだろう。
屋敷でビクトルに声をかけてきたイリスは、散歩をしたいので同行してほしいと言ってきた。
「でも、忙しいでしょう? がんばって早く歩くわね」
「いえいえ。イリス様が一人で出歩く何十倍もマシですから、何ともありませんよ」
これは、心からの本心だ。
イリスが一人で歩けば、どんな面倒ごとが起こるか。
考えただけでも胃が痛い。
普通に美少女だし、貴族の御令嬢だし、ヘンリーの婚約者で『毒の鞘』候補。
攫う理由がよりどりみどりである。
ヘンリーがどうにか「一人で外出しない」という約束を取り付けてくれてはいるが、それだって魔がさすこともあるだろう。
そしてイリスに何かあれば、あのヘンリーが暴走しかねない。
主人のため、ビクトルの胃のため、世界の平和のためにも、イリスには安全に過ごしてもらわなければならない。
小柄で華奢なイリスは体力がないと評判だが、こうして一緒に歩いてみると速度は特に遅くはない。
以前、馬車の中で謎のバランス感覚を見せていたし、単純に体力がないだけで運動ができないというわけではなさそうだ。
そもそも貴族の御令嬢は徒歩で移動したりしない。
そういう意味ではイリスは寧ろよく動ける方なのだと思う。
ここ最近、ヘンリーは特に忙しくて休憩もあまりとれていない。
たぶん、イリスともろくに会えていないはずだ。
主人の代わりに謝ると、イリスは慌てて首を振った。
「いいの、大丈夫よ。元気ならそれで良いわ」
気遣う言葉に、ビクトルの頬もゆるむ。
だが、次の瞬間目に入った光景に、思わず顔が強張った。
立ち並ぶ店舗の一つ、宝飾品が描かれた看板の店の前に、馬車が停まっている。
馬車から出て来た男女の片方は、ヘンリーだ。
例え遠目でも、主人を見間違えることはない。
「……ヘンリー?」
隣で小さくそう呟くのを耳にして、ビクトルは思わず息を呑んだ。
馬車から降りて女性に手を貸しているのは、確かにヘンリーだ。
亜麻色の髪の女性はそのままヘンリーの腕に手をかけ、二人は店に入ろうとしている。
……これは、まずい。
ビクトルの背を冷たい汗が流れる。
ヘンリーが同行しているということは、あの女性は調査対象なのだろう。
だが、傍からは仲睦まじい男女が宝飾品の店に入ろうとしているようにしか見えない。
イリスからすれば、ただの浮気現場に遭遇ということだ。
恐る恐るイリスを見てみると、何も言わずにじっとヘンリーを見ている。
ヘンリーもこちらに気付いたらしく、目を瞠っているのがわかった。
「……ビクトル、行こう」
そう言って、イリスはヘンリーに背を向ける形で歩き出す。
それに従いながら、ちらりとヘンリーを振り返ると、恐ろしい視線でこちらに何かを訴えている。
――最悪だ。
タイミングが最悪だ。
イリスは男性と奔放に遊ぶような女性ではない。
婚約者のあの姿を見たら、きっとショックを受けるだろう。
それをフォローしつつ、誤解を解かなければいけない。
なんてキツイ仕事だろう。
イリスは先程までと打って変わって無表情になり、何もしゃべらなくなった。
これは、放置しても良い状態ではない。
「……イ、イリス様。あれは、違うんです。その……」
「うん。わかってるわ。仕事でしょう?」
「――そ、そうです!」
予想外の返答に、ビクトルはほっと息をつく。
なんだ、ちゃんと伝わっているではないか。
残念な御令嬢とはいえ、ヘンリーとの信頼関係はしっかりあるのだとわかり、ビクトルは安心してイリスを送り届けた。
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「――ビクトル、イリスは?」
その日の深夜に帰宅したヘンリーは、開口一番にそう叫んだ。
「あのままアラーナ邸に戻っています」
「そうじゃない。何て言っていた? 見たんだろう?」
常にはなかなか見られない焦りを浮かべながら、ヘンリーが訊ねてくる。
「はい。ショックは受けた様子でしたが、『わかっているわ。仕事でしょう』と仰っていましたよ。大丈夫ではありませんか?」
だが、ビクトルの説明を聞くとヘンリーは頭を抱えだした。
「何てことだ。最悪だ。……せめて、今日会えれば良かったが。こんな時間じゃアラーナ邸に行くわけにもいかない。やっぱり、あの時追いかければ良かった。でも、あの調査のチャンスはなかなかなかったし、陛下に急かされていたし……」
「ヘ、ヘンリー様?」
「こうなったら、明日の朝一番に行くしかない。それしか道はない」
ヘンリーの目が据わっているが、ビクトルには理由がよくわからない。
「ヘンリー様、イリス様は怒っているわけではなさそうでしたよ? 泣くかと心配しましたが、それも大丈夫でしたし」
「怒るか泣くかしてくれるなら、まだ良い! 誠心誠意、謝れば良いからな!」
良くはない気がするが、そういう事ではないらしい。
「ですから、仕事だとわかっているようでしたよ?」
「おまえはイリスをわかっていない」
「……はあ」
ヘンリーは苛立ちとも焦りとも言えぬ様子を隠しもせずに、勢いよくソファーに座った。
「イリスのことだ。絶対、勘違いをしている」
「仕事という体で浮気しているということですか?」
「それならまだ良い。あくまで浮気だからな。イリスなら、あっちが本命だと思っている可能性がある」
「はあ? まさかそんな。日頃のヘンリー様を見ていれば、本命どころか浮気すらも万が一にもありえないとわかりそうなものですが」
「だから、イリスを甘く見るな。最悪、婚約自体が偽装だと思い込みかねない」
それはつまり、イリスと婚約しているのはあくまでも建前で、他に意中の女性がいるということか。
「もっと最悪な事態では、身を引くと言い出す可能性すらある」
「……まさか」
「だから、あいつを甘く見るな。体力の欠片もないくせに、行動力だけはやたらとあるんだ。身を引くと決めたら、すぐにアラーナ伯に掛け合って手続きを進めかねない」
「……いや、まさか」
「以前、女性に告白された時に残念なドレスでもイリスが良いと断ったんだが。それを見ていたイリスは、俺が残念なドレスの方が好きだと勘違いをした。そこから連日残念な恰好をし続けて、最終的には倒れた。そういう女だ」
「……つまり、残念なのですね」
「そうだ、すこぶる残念な思考の持ち主で、その上鈍感だ。どう勘違いしていても、既に行動していてもおかしくない。一刻も早く誤解を解かなければ、やばい」
ヘンリーは肺の空気を締め出すようなため息をつくと、勢いよく立ち上がる。
「明日は、朝一番でアラーナ邸に行く。調整しておいてくれ」
「かしこまりました」
「今後は他の奴に回そう……ニコラスに回そう……こうなったら、ウリセスを引き込んでも良い……ああ、でも次の夜会は俺じゃないと駄目か。……嫌だ……」
ため息をつきながら自室に戻る主人を見送りつつ、ビクトルもまたため息をつく。
「……なんとまあ、面倒くさい残念な婚約者だ」
そして、それはビクトルの将来のもう一人の主人でもある。
ビクトルは残念な未来に思いを馳せつつ、明日の予定の調整を始めた。