リハビリをお休みします
「……イリス、どういうつもりだ」
ヘンリーの低い声が馬車の中に響く。
「休憩よ。リハビリにだって、お休みが必要だわ」
ビクトルの隣を陣取ったイリスは、正面に座るヘンリーに訴える。
「さっき、頑張るって言ったばかりだろう」
「それは……。だって、ヘンリーがいけないのよ。馬車に乗るなり、攻撃的だから」
馬車に乗ったイリスは、早々にヘンリーの攻撃に遭っていた。
隣に座るのは別に良い。
だが、何故手を握られなければいけないのか。
ただ触れているだけなら、百歩譲って様子を見ても良かったのだが、何だか妙に指を絡めてきた。
振りほどくと、今度は頭を抱えてきた。
馬車の旅は始まったばかりなのに、これでは先が思いやられる。
リハビリは大切だ。
だが、心が折れては続くものも続かない。
イリスは馬車内のリハビリをお休みすることにした。
そして、危険なヘンリーの隣を離れ、ビクトルの隣へと移動したのである。
「わかった、善処する。とりあえず、こっちに戻れ」
「やだ。信用ならないわ」
伸ばされたヘンリーの手から逃れるため、ビクトルの背後に隠れようと試みる。
ビクトルは普通に座っているので、背後に隠れるというよりは背中にくっつく形だが、仕方がない。
本当なら、ビクトルの背中と背もたれの間に挟まりたいくらいだ。
「おまえなあ……。いつまでそうしているつもりだ」
「このまま到着するまで避難するわ。ここが唯一の安全地帯だもの」
絶対に動かないという意思を込めてビクトルの腕にしがみつくと、ヘンリーの眉が顰められた。
「……イリス様。私は今、最前線で死にそうなのですが」
「じゃあ、私と一緒ね。共に生き抜きましょう、ビクトル」
腕にしがみついたままビクトルを見上げると、何だか顔色がよろしくない。
「……ビクトル、具合が悪いの? 大丈夫?」
「いや、イリス様が戻ってくだされば問題は……」
心配になって額に手を当てると、ビクトルの顔が目に見えて強張った。
「熱はないみたいだけど。無理しちゃ駄目よ?」
「……そう思うなら、どうか戻っていただきたく……」
「イリス、戻れ」
「やだったら」
ヘンリーと暫しにらめっこをすると、イリスはビクトルの腕を抱えたまま窓の方に顔を逸らした。
ゆっくり流れる景色をじっと見ていると、どこからともなく睡魔がやってくる。
モレノ関係はどこも早起きで、イリスとしては十分な睡眠を確保できていない。
それで座った状態でゆらゆら揺られていたら、眠くなるのも当然というものだ。
耐えなければとは思うのだが、段々とその威力は増し、いつの間にかイリスは夢の世界へ旅立っていた。
「……あれ?」
ビクトルの隣でうとうとと居眠りをしたはずだが、何故隣にはヘンリーがいるのだろう。
しかも、ヘンリーの肩にもたれるような形で、イリスの頭は抱えられている。
離れてみようと試みるが、ヘンリーの腕はまったく動かない。
ちらりと見上げてみると、紫色の瞳と目が合った。
「おはよう、イリス。よく眠れた?」
「え。まあ。それなりに」
「それは良かった。無理しないで、このまま休んで良いよ」
表情と言葉は穏やかで優しげだが、どう足掻いても腕を外せない。
力を入れている感じではないのに、何故だろう。
不思議に思いつつ正面に視線を向けると、ぐったりと疲れた様子のビクトルが窓の外を見ていた。
「ビクトル、どうしたの? 大丈夫?」
「……巻き込まないでください、イリス様。まだ死にたくないんです」
「何? どういうこと?」
「イリス。ビクトルも疲れているんだ。休ませてあげて」
「う、うん。……わかったわ」
そう言われれば、どうしようもない。
頭を抱えられた姿勢には多少の不満があったものの、ヘンリーの肩にもたれていると楽ではある。
大人しくしていると、再び睡魔がイリスの元にやってきた。
休んで良いと言われているし、もう寝てしまおう。
そうすれば、羞恥心に惑わされることもない。
そう決めると、イリスは再び夢の世界に足を運んだ。
「イリス。今夜、一緒に夜会に行くぞ」
モレノ侯爵領から帰ってしばらくしたある日、昼頃にやって来たヘンリーが突然そう言った。
「え? 今夜って。……私、約束してた?」
まったく身に覚えがないのだが、忘れてしまったということだろうか。
だとすれば、大変に申し訳ない限りだ。
「いや? 今、言った」
あっさりと否定され、イリスも呆気にとられる。
「何で、そんな急に?」
「予定はないだろう?」
「ないけど。ドレスの用意だって……」
これでもイリスは一応女子だ。
いつも同じドレスというわけにはいかないし、ドレスに合わせてアクセサリーを選んだりと意外と忙しい。
ちなみに、残念装備の場合には付属物が多いので、更に忙しい。
「お嬢様、ドレスでしたら問題ございません。すぐにご用意できます」
「何でよ。少しは驚きなさいよ」
ダリアの揺るぎない侍女ぶりに呆れつつ、感心してしまう。
「それじゃ、夜に迎えに来るから」
ヘンリーはにこりと微笑む。
何となく、その笑顔に不穏なものを感じたが、仕方がないのでうなずく。
釈然としないままヘンリーを見送ると、ダリアが楽しそうにこちらを見ている。
「さあ、お嬢様。夜会は、戦です。準備を始めますよ」
「え? だって、ドレスは大丈夫なんでしょう? まだ昼なのに」
「まずは入浴から。――徹底的に磨き上げて、会場で一番のお姿に仕上げて差し上げます。覚悟なさってくださいね」
ヘンリーの比ではない不穏な気配に、イリスはうなずくことすらできなかった。