リハビリの終着点を検討します
「おはようございます、イリス様」
女性の声と共に陽光が降り注ぎ、眩しさにイリスは目を擦った。
「……おはよう、ございます……」
ぼうっとしながらベッドから起きると、思い切り伸びをする。
夜遅く、朝は早いモレノ流か。
まったく体がついていけそうにない。
イリスは初めて、将来の結婚生活に不安を感じた。
「着替えをお持ちしましたが……汗をかかれたようですね」
「あ、うん。ちょっと熱が出たみたい。もう平気よ」
昨日手当てをしてくれた女性だと思う間もなく、額に手を当てられる。
「そのようですね。では、体をお拭きしましょうか? 動けるようでしたら、お風呂の用意をいたしますが」
「動けるけど。手間だから良いわ。顔を洗うくらいで十分よ」
そう言って用意されていたタオルに手を伸ばすと、掴む前に女性に下げられた。
「御冗談を。汗まみれのままで人前に……ヘンリー様の前にお連れするわけにはいきません。動けるのでしたら、すぐにお風呂にいたしましょう」
結局、お風呂に漬け込まれたイリスは、隅々までピカピカに磨かれた。
負傷した腕も、昨日に比べればかなり痛みが軽減されている。
やはり、モレノ印の薬は良く効くな、と感心してしまう。
全身を磨かれ、薔薇の良い香りに包まれたのも束の間。
腕と肩の手当てをした結果、薔薇と薬草の香りが直接対決する羽目になった。
どちらも単品で少量ならば良いのだが、相乗効果で香りがつらい。
もともと香水が苦手なので、着替えを済ませてヘンリーに会う頃には、すっかり酔っていた。
「……何だか元気がないな。まだ調子が悪いのか?」
「熱は下がったから大丈夫よ。ちょっと、薔薇と薬草の対決が熾烈なだけ」
「何の話だ」
呆れた様子のヘンリーは、そのままイリスに手を伸ばす。
額に触れて熱の有無を確認するのかな、と何となく見ていると、思った以上に近付いてくる。
これはおかしいと気付いた時には、イリスとヘンリーの額が触れあっていた。
「……確かに、もう熱はなさそうだな」
唇が触れそうな程の至近距離で呟かれ、イリスの羞恥心メーターはあっという間に限界値を振り切った。
窮鼠猫を噛む、という言葉がある。
まさに、イリスは追い詰められた鼠状態だった。
「――いっ?」
鈍く響く音と共に、ヘンリーの顔が離れる。
どうにもならなくなったイリスは、思い切り頭突きをしていた。
言葉を失ってこちらを見るヘンリーの額が赤い。
それを見て、ようやく自分が何をしたのか気付くと、途端に額に痛みを感じ始めた。
「……い、痛い……」
ずきずきと響く痛みに、知らぬ間に涙が浮かんでくる。
恥ずかしいわ痛いわで何だか悲しくなってきたイリスは、その場にうずくまった。
最近のヘンリーは、やはりおかしい。
何でこんなに接近してくるようになったのだろう。
エミリオの件のせいか、ファンディスクのせいか、それとも残念ブーストが切れてイリスが気付いただけの話なのか。
リハビリ中だとこれだけ言っているのに、酷い。
考えれば考えるほどこんがらがってきて、涙が溢れそうになる。
「大丈夫か、イリス。……泣いているのか?」
うずくまったイリスを持ち上げてソファーに座らせると、涙に気付いて覗きこんでくる。
伸ばされた手にイリスの肩が震えると、一瞬ためらった後に、そっと額に触れる。
「だいぶ赤くなっているな。……そんなに、俺に触られるのが嫌か?」
「そうじゃなくて。……近すぎるの。多すぎるの。リハビリ中だって、何度も言っているのに」
しっかりと文句をつけたつもりだったのだが、何故かヘンリーは安堵の表情を浮かべている。
「聞いているの?」
「ああ、聞いている。……俺に触られるのが嫌なのかと思った。良かった」
「良くないわ。もう少しリハビリに理解が欲しいのよ」
「理解、ねえ」
ヘンリーはイリスの隣に座ると、何やら思案している。
「イリスの言うリハビリはさ、どこが終着点なんだ?」
「……え?」
何を言われたのかわからず、首を傾げる。
「つまり機能回復訓練だろう? 羞恥心を取り戻したばかりで回復に向けて訓練しているってことだな?」
「うん」
「なら、羞恥心が本来の水準に回復したら、どうなるんだ?」
「どう、って」
……どうなるのだろう。
羞恥心を犠牲にした残念ブーストの始まりが、『碧眼の乙女』の記憶を取り戻した時なのだから、もう五年近く前になる。
五年前のイリスの羞恥心とは、いかなる水準だったのだろう。
そもそも年齢が違うし、婚約者なんていなかったし、さっぱり見当もつかない。
「……わからない」
「だろうな」
ヘンリーはいつの間にか紅茶を淹れていたらしく、イリスの前にカップを差し出す。
温かい湯気を浴びていると何だか落ち着いてきた。
確かに、このリハビリには終着点も目標も何も存在しない。
では、何をもってしてリハビリなのか。
何だか、暗礁に乗り上げた気分になった。
「……どうしたら良いのか、わからなくなってきたわ」
とにかく、一度情報を整理してみよう。
程度は不明だが、元々羞恥心はあった。
それが、『碧眼の乙女』の記憶の代償でなくなった。
失った羞恥心が戻ってきた。
ヘンリーの攻撃が恥ずかしくてつらい。
「……あれ?」
何だか、最後だけ異質な気がする。
結局のところ、羞恥心がどこまであろうが、ヘンリーが攻撃を控えれば良いだけなのではないか。
そうすれば、つらい思いもせず、穏やかに羞恥心が馴染むのを待てる。
「どうした?」
「――検討した結果、ヘンリーが私に近付かなければ良いということになったわ。遠距離でよろしく」
ヘンリーは報告を聞くなり、紅茶を噴き出した。