隙間の凍結
何だろうと振り向くよりも早く、ガラスが割れた音と共に手が伸び、イリスの左腕をとらえる。
「イリス様!」
「――動くな」
扉の向こうから響く声に、ビクトルの動きが止まる。
割れた窓ガラスから突き出た手はイリスを扉に引き寄せ、同じくガラスから飛び出す刃物が首筋に突きつけられている。
ちらりと横目で見れば、男性のものと思われる腕はガラスまみれで、微かに血も滲んでいる。
手は手袋で防護できても、上腕までは難しかったのだろう。
そこまでして襲撃される理由が、狙いがわからない。
前回はカロリーナ曰くイリスを狙っていたというが、今回はどうなのか。
大体、狙うというのはどういう状態だ。
攫うのか、傷つけるのか、殺すのか。
それによっても対応は変わるのだろうが、何にしても今はまったく動けない。
イリスが捕まってしまったせいで、ビクトルも動きが取れないのだろう。
「……鍵を、開けろ」
膠着状態は、男の声で破られた。
「鍵?」
「扉の鍵だ。お嬢さんが開けろ」
そう言って、掴んでいる腕を捻り上げる。
思わず声が漏れ、ビクトルの眉間に深い皺が刻まれた。
扉の鍵を開ければ、この男が馬車の中に侵入する。
あるいは、イリスやビクトルを今度こそとらえる。
開けるべきではないのだろうが、どうしたら良いのだろう。
「……イリス様、開けてください」
左腕を捻られ、痛みに声を漏らしつつ考えていたイリスに、ビクトルが声をかける。
「でも」
「今、開けます。大人しくします。だから彼女の手を捻るのはやめてください」
ビクトルの呼びかけに、男は嘲笑を返す。
「お嬢さんが頑張っているのに、情けないな。……まあいい。おまえは反対の扉まで下がれ。手は頭の上に上げろ。お嬢さんは反対の手で鍵を開けるんだ」
このまま痛みに耐えてもどうしようもないし、ビクトルが言うのだから何か意味があるのかもしれない。
ビクトルが指示通りに動くのを見て、イリスに突き付けられていた刃物が下げられる。
空いている右手で鍵を開けると、扉の外に引きずり出された。
男に左腕を掴まれ、刃物を突き付けられて馬車の前に立つと、人影が見えてくる。
立っているのはヘンリーと数人のみという状態で、大勢の男性が地面に倒れこんでいた。
「――イリス!」
こちらに気付いたヘンリーが目を瞠る。
結果的にただの人質になってしまった。
手伝うどころか、足手まといであり、足枷だ。
情けなくて申し訳なくて、唇をぎゅっと噛む。
「ヘンリー・モレノだな? 見ての通りだ。こちらの指示に従ってもらおう」
「……何が目的だ」
ヘンリーの目つきと声が鋭く変わっていくが、男はそれが楽しいとでも言わんばかりに笑う。
「それだけの剣の腕を持っていても、お嬢さん一人で動けなくなるんだから、情けないよなあ!」
男がそう言って剣を持つ手を大袈裟に動かすと同時に、イリスの髪が引っ張られた。
「いた!」
「――何だ? くそ、引っかかってる。この!」
男の服に、髪が絡まったのだろう。
力任せに引っ張られ、急に髪にかかっていた力がなくなる。
破裂音に似た音と共に、辺りに小さな光の粒が煌めいた。
イリスの視界に、沢山の粒が転がってくる。
髪飾りのビーズだ。
バラバラに壊れて飛び散ったビーズを呆然と見ていると、男がそれを踏みつけた。
――ヘンリーが、買ってくれたのに。
一緒に街に出掛けた思い出がよみがえり、悔しさと悲しさと怒りがこみあげてくる。
イリスは俯くと、右手の拳を握り締めた。
「……空気の隙間」
「あ? 何か言ったか?」
ぽつりと呟くイリスに、男が反応した。
「私が隙間だと言えば、それは隙間なの。誰が何と言おうと、隙間なの」
「何を言って――」
イリスは右の手のひらを、背後の男に向けて掲げる。
――来い!
イリスの呼びかけに応えるように氷の板が出現し、男の頭に勢いよく衝突する。
男が悲鳴と共によろめくと、腕を掴まれているイリスも引っ張られて地面に膝をつく。
頭を押さえる男がイリスの腕を更に引こうとすると、巨大な氷の板が男の足の上に落ち、声にならない声を上げる。
「この女!」
「――俺の『鞘』に、手を出すなよ」
いつの間にか、ヘンリーの剣が男の額にぴたりと当てられている。
どうやら若干刺さっているらしく、額からは赤い雫が滴り始めていた。
「イリス様、大丈夫ですか」
男の背後から声がするので見てみると、ビクトルが男の背に短剣を突き付けている。
それを見たヘンリーが男の仲間に視線を移すと、五人ほど残っていた男達が一斉に走り出した。
逃げるつもりだ。
何だか、それがとても許せなくなった。
ヘンリーが動くより先に、周囲に冷気が広がる。
――逃がさない。
その思考に沿うように、さざ波のように地面が凍結し、男達の靴も凍結して身動きが取れなくなる。
「イリス?」
ヘンリーが驚いたような声で覗きこんでくるが、妙に興奮して落ち着かない。
魔力が踊るように溢れてくる。
まるで、自分ではないみたいだ。
そこに高速の馬車がやって来たかと思うと、急停車する。
止まりきる前に扉が開き、カロリーナが飛び出して来た。
「――イリス! 大丈夫だった?」
「うん」
返事をするものの、何だか上手く喋れない。
気が付くと、イリスはがたがたと震えだした。
それを見たカロリーナがイリスをぎゅっと抱きしめる。
「かわいそうに。怖かったのね」
「……さ」
「何? どうしたの?」
「……寒い」