雲行きも残念です
校舎から庭に出たところで、イリスは足を止めた。
全力で走ったせいで、呼吸が苦しい。
走り込みをしていていなければ、令嬢ボディではとてもここまで走れなかっただろう。
やはり、毎日の地道な努力は実を結ぶのだ。
膝に手をついて荒い呼吸を整えていると、校舎から人影が飛び出してきた。
レイナルドかと警戒したが、人影はしきりに後ろの校舎を気にしている。
どうも、レイナルドではなさそうだ。
「イリス? こんなところでどうしたんだ?」
ヘンリーだとわかった途端に、安心したイリスは腰が抜けて座り込んだ。
立ち上がろうにも、上手く力が入らない。
今更だが、さっきのレイナルドは一体何だったのだろう。
「大丈夫か」
ヘンリーが座りこんだイリスに手を差し出した。
その手が先刻のレイナルドの手と重なり、手首を掴まれた恐怖がよみがえる。
強張った顔で思わず体を引いてしまう。
そのイリスの反応に、ヘンリーが眉根を寄せた。
「――何があった」
「何って」
何だったのか、イリスにだってよくわからない。
イリスは無意識にレイナルドに掴まれた手首をさする。
「手を痛めたのか?」
「手は、大丈夫。それより、ヘンリーこそどうしたの?」
「リリアナに……襲われかけた、と思う」
ヘンリーは逡巡した後、小さな声で答える。
それはまた、意味不明だ。
積極的アプローチということだろうか。
一体どうなっているのだろう。
「ヘンリーも?」
「も、って何だ。 ――レイナルドか? 大丈夫なのか?」
身を乗り出して心配するヘンリーに、イリスはうなずく。
「セシリアさんに呼ばれて教室に行ったら、レイナルドが来て。それで。……シルビオの教えてくれた技で逃げてきたの」
上手く説明できずに間が開いた部分で、ヘンリーの顔が曇る。
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。ちょっと手首が痛いだけ。シルビオに教わってなかったら、逃げられなかったかもしれない」
非力な令嬢ボディでは、男性の力には到底勝てない。
わかってはいたことだが、現実を突き付けられるとショックだった。
「教わった技って?」
「男性に接近されたら、急所を狙うのも一つの方法だよ、って。思いっきり股間を蹴り上げてきたわ」
ヘンリーが何とも言えない表情で、そうか、と呟く。
やはり、対男性に絶大な効果があるようだ。
「……俺も、セシリアに呼ばれたんだ」
「ヘンリーも?」
こんな偶然はそうないだろうから、わざと呼び出されたと考えるべきだろう。
イリスとレイナルドを二人にするためか、ヘンリーとリリアナを二人にするためか。
あるいは、その両方を狙ったのだろう。
ヘンリーに差し出された手を取ると、イリスは立ち上がって土埃を払い落とす。
「イリスはアベル王子を知っているか?」
「ベアトリスの元婚約者よね?」
一作目ヒロインのクララに奪われた、メイン攻略対象のはずだ。
「実はアベル王子に、恋人のクララのことを調べてほしいと頼まれていたんだ。一向に婚約申し込みの返事が来ないし、様子が変だからとな」
「そうなの?」
さすがは侯爵家。
王族とも親密ということか。
それで、時間ができるのが都合が良いと言っていたのかとイリスは納得する。
「いや、断ったけどな」
「そうなの?」
「カロリーナの友人を捨てた形だろう? ろくに付き合いのない王子よりも、カロリーナの怒りの方が怖いからな」
前言撤回。
全然、親密じゃなかった。
「王子はどうでも良かったんだが、気になったから、何となく調べてみたんだ。そうしたら、クララが不審な行動を取っているのがわかって。……そのクララが、セシリアと会っているのを見たという情報があるんだ」
話の雲行きが怪しくなってきた。
セシリアは何をしたいのだろう。
『碧眼の乙女』をシナリオ通りに進めたいだけなら、クララに接触する必要なんてない。
彼女が登場するのは一作目の、とうに終わった物語。
もともと、二人に接点などないはずだ。
セシリアが転生者でも、強制力の代理人だとしても、行動が理解できない。
イリスは言い知れぬ不安を感じた。
「レイナルドとセシリアに気をつけろ。リリアナもだ、何だか、おかしい」
ヘンリーが険しい表情でイリスを見る。
「――特にレイナルドには、絶対に近付くな」
「そんなこと言っても、学園にいる以上は完全に避けるのは難しいわ」
食堂位なら避けようもあるが、授業で近くにいるのはどうしようもない。
「……わかった。それは、俺に任せて」
ヘンリーが抑揚のない声で答える。
どこかで聞いたようなセリフだが、どこだっただろうか。
イリスはしばし考えたが、やがて思い出すのを諦めた。