一通りの範囲がおかしいです
「……おはよう」
何を言ったら良いのかわからず、とりあえず挨拶をする。
「お、おはよう、イリス。……リボンを結べと言われて来たんだが。リボンって……」
「腰の後ろにある大きなリボンよ。イリスからはよく見えないし、私はリボンが苦手だし、ちょうど良いでしょう?」
カロリーナが説明すると、ヘンリーの眉間に皺が寄った。
「いや、カロリーナ。あれって、着替えの途中じゃないのか?」
「あとはリボンと髪くらいだもの、問題ないわ。……気が利く姉でしょう?」
「……感謝する」
何やらぼそぼそと呟いているが、イリスには聞き取りづらい。
「後ろを向いて、イリス」
ヘンリーに言われるがまま後ろを向くと、あっという間にリボンを直される。
「これで良いだろう。……あとは、髪?」
当然のようにイリスの手から櫛を取り上げて座らせ、手慣れた様子で髪を梳かし始めた。
「え? リボンだけで良いわよ?」
慌てて見上げるが、ヘンリーは手を止めない。
「せっかくだから結ってやるよ。どんな髪型にしたいんだ?」
「ええ? 何で? というか、髪型指定できるの?」
「だから、言ったろう? 何でも一通りのことはできるように仕込まれているって。……希望がないなら、適当に結うぞ」
呆れたように言うヘンリーに、困惑を超えてちょっとした恐怖が芽生える。
「一通りが怖いんだけど! モレノが怖いんだけど!」
百歩譲って、刺繍は許そう。
女性と話を合わせるのに、使えることがないとも限らない。
でも、髪を結う必要はないだろう。
女性だって上手くできない人も多いのに、何の技術を身に着けているのだ。
最終目標はどこなのだ。
乙女か。
立派な乙女なのか。
「……安心して、イリス。一通りの範囲がおかしいのは、ヘンリーだけだから」
「やっぱり、おかしいんじゃない」
カロリーナに指摘すると、笑顔を返された。
「良いから、少し黙れ。もう終わる」
「何でよ、早いわよ。もっと手間取りなさいよ。失敗しなさいよ」
八つ当たりしながらイリスが見上げると、至近距離で紫色の瞳と目が合った。
「……大人しく前を見ていないと、キスするぞ」
「――やだ!」
即答して顔を戻すと、背後で笑っている気配がする。
何なのだろう。
やっぱり、最近のヘンリーは攻撃的で困る。
「……見ているこっちの気持ちも、考えてちょうだい」
椅子に腰かけて様子を見ていたカロリーナが、ため息と共に呟く。
「見たくないなら、少し離れたらどうだ?」
「……魔が差すって言葉があるでしょう? 念の為よ」
「それは信用のないことだ。……ほら、できたぞ」
そう言って手鏡を渡される。
ハーフアップした髪をいくつかの三つ編みにして、リボンで留めてある。
三つ編みには花まで編み込んであり、華やかだ。
「嫌だ、もう。早いし、上手いし、可愛いし。嫌だ、もう」
「何だよ、嫌なのか?」
「いいのよ、ありがとう。でも、もう嫌だからね」
支度の途中を見られるのは恥ずかしいし、何より圧倒的な謎の女子力を見せつけられるのが怖い。
「遠慮するな。ここにいる間は、俺が髪を結ってやるよ」
「だから、嫌だってば!」
きっぱりと断るのだが、ヘンリーはにこにこと御機嫌だ。
「はいはい。皆、待っているんだから、いちゃつくのはそこまで! さっさと行くわよ」
「残念だな、イリス」
「待って。いちゃつくって何?」
手を繋ごうとするヘンリーをかわすと、イリスは急いでカロリーナを追いかけた。
ヘンリーに連れられて屋敷を出ると、敷地の奥へと移動する。
そこにはもう一つの建物があった。
「ここは、モレノの工房。イリスの指輪や、カロリーナが贈った短剣もここで作った物だ」
「そうなのね」
効果がおかしいモレノの加工品だが、まさか自前で作っていたとは。
領地の屋敷に大きな工房を構えているのだから、驚きである。
扉を開けて中に入ると、簡素な応接室に通された。
「ここで何をするの?」
「今から、明日の儀式の準備をする。『モレノの毒』の継承者と『毒の鞘』が揃ってから、説明するよ」
「……さっきカロリーナの入って行ったお部屋に、ほとんど揃っていたわよね? 何で先に来たの?」
わざわざ別行動する理由があるのだろうか。
「それは、イリスと二人で散歩したかったから」
悪びれもせず攻撃してくるヘンリーに、イリスは思わず距離を取る。
すると、同時に扉が開いて勢いよく男性が入室してきた。
「お久しぶりですね、ヘンリー様。婚約指輪なら、どうにか間に合いました。本当に、酷い納期ですよ。勘弁してください」
頭に布を巻きつけ、作業着のようなものを身にまとった男性はヘンリーに何かを渡し、イリスを見つけるなり目を瞠った。
「まさか噂の『毒の鞘』候補の御令嬢ですか? なるほど。……ヘンリー様も、ただの面食いだったんですね」
そう言ってジロジロと眺められ、びっくりして固まってしまう。
「おい、イリスが怯える。あんまり見るな」
そう言いながらヘンリーは左手の指に何かをはめている。
どうやらイリスが贈った指輪に、蔦のデザインの婚約指輪をはめ込んでいるようだ。
ということは、ヘンリーの婚約指輪を作り直したのか。
わざわざイリスの指輪を活かすものにしてくれたのは、ちょっと嬉しい。
「減るものじゃないし、良いじゃありませんか。ヘンリー様が指輪を注文した時には、工房中が大騒ぎでしたが。これだけ可愛ければ、納得ですね」
「駄目だ、減る」
「……溺れるヘンリー様を見られる日が来るとは。長生きはするものです」