母との約束
「……え?」
何の冗談なのかと思ったが、ロベルトの瞳は真剣だ。
継承者の証であるという紫色の瞳は、イリスを見透かすように力強い。
「何者、というのは何でしょう? 残念の先駆者と呼ばれている件ですか?」
イリスが首を傾げて問い返すと、ロベルトは口元に笑みを浮かべた。
「言いたくなくても、知らないのだとしても構わない。……イリスは大切な孫の伴侶になる娘で、我々にとっても孫のような存在だ。信頼しているし、『毒の鞘』に相応しいと思っている」
ロベルトが何を言いたいのか、わからない。
もしかすると、何かイリスに落ち度を見つけたということなのか。
ある意味、イリスは落ち度の塊だ。
何を言われたとしても仕方がない。
でも、だとしたら……信頼しているなんて、わざわざ言うだろうか。
『イリス。知らない人に名前を教えてはいけませんよ』
何なのだろうと考えていると、ふと母イサベルの言葉が脳裏に蘇った。
小さい頃からずっと言われ続けている言葉。
一度、何故なのか聞いてみると、イリスを守るためだと言われた。
あの名前を言ってはいけないのも、あの紋章を見たら逃げなさいと言われているのも、同様だという。
それでもよくわからずに尋ねると、親戚のようなものだと言われた。
イサベルが泣きそうな顔をするのでそれ以上は聞けなかったが、要は不仲の親族がいるのだろうと解釈した。
イリスを守ると言うからには、何か不利益があるのかもしれない。
どちらにしてもイサベルの悲しむ顔を見たくないので、ずっと言いつけを守っていた。
話してはいけないと言われていたから、ヘンリーにだって伝えていない。
あれがもし、関係するとしたら。
相手は王家直属の諜報機関、モレノ侯爵家の先代当主だ。
件の親族が何か問題を抱えているとしたら、それを気にするなという意味なのかもしれない。
わざわざ伝えるほどなのだから、相当問題ありの親族の可能性が高い。
あるいは、迷惑だからイリスの方から婚約を解消しろ、ということだろうか。
それなら、信頼しているなんて言わなければ良いのに。
いや、事前に報告していないイリスが悪いのか。
でも『言いたくなくても構わない』なら、報告は不要ということになる。
よくわからなくて、自然とイリスの表情は硬くなった。
そんな様子を見て、ロベルトは申し訳なさそうに眉を下げる。
「怖がらなくて良い。私は年を重ねて色々見てきたから、何となく察しているだけだ。詳しくは知らない。もちろん、ヘンリーも知らないだろう」
最後の一言に、少しだけ緊張が解ける。
どうやら、婚約解消を迫られているわけではないらしい。
だとしたら何故、こんなことを言うのだろう。
あまりに曖昧で、何と答えるべきなのかわからない。
「いつか君が困った時には、モレノが力になる。……それだけは、覚えていてくれ」
「……はい」
この流れでは、そう答えるしかないが、結局どういうことなのだろう。
だが、ロベルトの言葉に偽りはない。
……そんな気がした。
何となく心がざわついたまま部屋を出ると、中庭の人影に手招きをされる。
それがカロリーナだと分かったイリスは、そのまま庭に入って行った。
「おかえり、イリス。話はもう終わったの?」
中庭にはテーブルと椅子があり、カロリーナの他にシーロとニコラスが座っている。
どうやらお茶を飲んでいたらしく、テーブルにはクッキーも用意されていた。
「うん。……皆は何のお話をしていたの?」
「ああ、学園の頃の昔話だよ」
「この王子様……いや、今は公爵か。とにかく、シーロ様は学園の頃は女子を独占するくらいの人気でね。同級生の男達は涙を呑んだものだよ」
どうやら、ニコラスとシーロは同級生らしい。
さすが『碧眼の乙女』四作目の隠しキャラなだけあって、シーロはモテモテだったようだ。
「それで、イリスは何の話だったんだい?」
「……改めて『解放者』をお願いされました」
「ああ。……うん、そうだろうね」
「シーロ様は、わかるんですか?」
うなずくシーロを見て、ニコラスが驚く。
「フィデル兄上が国王になったが、まだ子供はいない。何かあれば王位を継ぐのは俺だからと、先日教えられた」
「そうですか」
ニコラスは何か納得した様子で、クッキーを手に取ると口に放り込んだ。
シーロは王族だから、もともとモレノの家業のことは知っていたはずだが、何のことだろう。
不思議に思っているのがわかったらしく、シーロはイリスの頭を撫でる。
「この祭りはね、とても大切なんだ。モレノにとってもだが……ある意味、王族にとってもね」
「それ、私が関わって良いのかしら」
「良いんじゃないかな。……いや。寧ろ、イリスが適任だと思うよ」
優しく微笑むシーロに、イリスはさらに困惑した。
「おはよう、イリス。もう朝よ!」
元気な声と共に、日の光が瞼に降り注ぐ。
目を擦りながら見てみれば、カロリーナが笑顔で立っていた。
「おはよう、カロリーナ。早起きね」
「モレノは朝が早いのよ。夜は遅いけど」
「……いつ寝ているのよ」
返事をしつつ、ベッドから滑り落ちるように抜け出し、伸びをする。
「短時間集中睡眠ね。ヘンリーなんかはその技術に加えて体力もあるから、数日徹夜しても問題ないわ」
「……私は、無理。寝ないと死んじゃう」
顔を洗い、寝間着を脱ぐとワンピースに袖を通す。
商家のお嬢様風とかいう、人気のワンピースらしい。
以前、ヘンリーが街をデートする時に買ってくれたものだ。
ダリアはイリスが一人でも着られるように、簡単な作りのものを中心に用意していた。
「あら、可愛いわね」
「前に街に出掛ける時に、貴族姿で目立たないように変装したの。仕立て屋のおすすめでね。ヘンリーが買ってくれたんだけど」
「貴族には見えなくても、これをイリスが着たら結局目立つ気がするけど……え? ヘンリーが?」
「うん」
ねだったわけではないが、断固断る必要もなかったので、そのままもらった。
ダリアに経緯を説明すると、頬を染めつつ延々とうなずいていた。
その様子は、さながら高速鹿威しか水飲み鳥だ。
ダリアは時々おかしな行動をする。
あれも、残念に関わってしまった弊害なのかもしれない。
「あいつがねえ……。あら、腰の後ろのリボン、歪んでいるわよ?」
「え? 本当?」
腰に大きなリボンがあるのだが、背後なのでよく見えない。
「カロリーナ、直してくれる?」
「私、リボン苦手なの。かえっておかしくなるわ。 ――そうだ。ちょっと待っていて」
何かを閃いたらしいカロリーナが、慌てて部屋を出ていってしまった。
とりあえず髪を梳かしていると、すぐに足音が聞こえてくる。
カロリーナ一人分ではなさそうだから、誰か使用人を連れてきたのだろう。
ついでに髪も結ってもらおうと扉の方を向くと、そこには笑顔のカロリーナと、驚いた表情のヘンリーの姿があった。