残念な現実
亜麻色の髪の女性はそのままヘンリーの腕に手をかけ、二人は店に入ろうとしている。
とても自然な流れで、お似合いだと思った。
何も言えずにじっと見ていると、ヘンリーがこちらに気付いたらしく、目を瞠っているのがわかる。
イリスの脳内に、沢山の情報と感情が流星群のように降り注いだ。
『ヘンリー様に愛想を尽かされてもしりませんよ』
いつだったか、ダリアに言われた言葉が浮かぶ。
――あれは、こういうことか。
パズルのピースが嵌まるように、何かすとんと腑に落ちた気がした。
「……ビクトル、行こう」
青い顔のビクトルに声をかけると、そのまま帰り道を進む。
さっきまでは風が気持ちよくて楽しかったのに、急に風も感じられなくなった。
「……イ、イリス様。あれは、違うんです。その……」
無言で歩いていると、ビクトルが弱々しい声で語り掛けてくる。
「うん。わかってるわ。仕事でしょう?」
「――そ、そうです!」
ほっとした様子を見て、侍従というのも大変だなと同情してしまう。
足早にアラーナ邸に帰ると、そのまま自室のベッドに横になった。
「……綺麗な感じのひとだったわね」
遠目だし顔は見ていないけれど、着ているドレスの雰囲気からして、大人っぽい上品な感じなのだろう。
馬車から降りる女性に手を貸すのは、紳士として普通のことかもしれない。
だが、二人で宝飾品の店に入るのは普通ではない気がする。
恋愛経験もろくになければ残念なイリスではあるが、それくらいは何となくわかる。
「宝飾品ねえ……」
ヘンリーに貰ったのは、街に一緒に出掛けた時に買ってくれたビーズの髪飾りと、学園の時の指輪くらいだ。
欲しいかと言われれば、正直、いらない。
だけど、心も頭もモヤモヤする。
何か考えなければいけないのに、何も考えられない。
「こういう時は、寝るに限るわ」
イリスはタオルケットをかぶると、現実から逃れるように眠りについた。
翌日。
まだ朝と呼べぬ薄暗い時間から、イリスは庭で魔法の鍛錬をしていた。
昨日のあれはたぶん、仕事だ。
ヘンリーがイリスを大事にしてくれているのは、わかっている。
でも、大事にしているのが一人とは限らないし、心なんて移り変わるものだ。
あれが仕事だとしても、そうじゃないとしても、イリスには判別のしようがない。
そんな風に考える自分が、ヘンリーを裏切っているようで申し訳ない。
「……でも、見ていて気持ちの良いものじゃないし。もしかして、って考えることだってあるわよね」
結局のところ、どちらにしてもイリスが呑み込むしかない。
『行動の凍結』による不信感の演出は、このための練習だったのかもしれない。
きっと、これからもこんなことはあるのだろう。
残念である以上、見限られることだって十分考えられる。
だが、またファンディスクが出ないとも限らないし、互いの安全のためにも残念を捨て去ることは難しい。
それにイリスは素で残念なので、それが駄目だというのなら、もうどうしようもない。
「だったら、悩んでいても仕方がないわ」
たとえ、いつ婚約解消を切り出されても笑って承諾できるようにしていたい。
せめて、ヘンリーの負担にならないようにしたい。
それくらいしか、イリスが返せるものはないのだから。
「――となると。経済的な自立が急務よね」
イリスは腕を組んで考える。
アラーナ家はクレトが継ぐ。
わざわざ養子に入ってまで継ごうとしているクレトがいるのだから、イリスは家を出た方が良いだろう。
当主のプラシドはアラーナ伯爵であり、男爵位も持っているが、それもすべてクレトでかまわない。
プラシドはイリスに甘いので家に残れと言うかもしれないが、いずれ結婚するクレトの邪魔になるのも申し訳ない。
せめて、別の屋敷にうつるべきだろう。
そうなると暮らしていくのに、お金が必要になる。
誰かと結婚すれば話が早いのかもしれないが、面倒見の鬼すら見限る残念な女を貰おうという、悪趣味な男性もいないだろう。
何より、イリスが結婚する気になれない。
「そうするとお金を稼ぐには仕事をしなくちゃいけないけれど。……私にできることって、何かしら」
体力は底辺だし、働いた経験もない。
イリスにあるものと言えば、伯爵令嬢という肩書と残念くらいのものだった。
「……だいぶ残念な現実ね」
考えながら隙間を凍結し続けていたせいで、庭はすっかり冷え切っている。
そう言えば、手のひらに氷塊を出せるのなら、空気の隙間と隙間を狙えば空中にも出せるのだろうか。
ふと思いついたのでやってみるが、いまいち上手くいかない。
「たぶん、イメージの問題よね」
イリスが隙間だと思えば、それは隙間だ。
だから、何か納得できるものがあれば、できるはず。
あるいは、強く思い描くことができれば。
そこまで考えたところで、くしゃみが出た。
だいぶ庭も体も冷えた。
これ以上続けると、またダリアに心配をかけてしまう。
今日はここまでにしよう。
イリスは冷えた腕をさすりながら、庭を後にした。
残念で生きていく方法を考えるために、イリスはミランダの店に向かった。
残念ラインを世の中に浸透させたミランダなら、残念なイリスのできる仕事を知っているかもしれないと思ったからだ。
「まあ、おはようございます、イリスお嬢様」
開店待ちの状態で訪れたイリスを、ミランダはいつもの笑顔で出迎えてくれた。