来ない理由はこれですか
「……本当に、来ないわ」
庭で紅茶を飲みながら、イリスは呟いた。
ハンカチの一件で「しばらく近寄らないで」と言ってから、はや十日。
あの言葉を忠実に守っているのか、いないのか。
ヘンリーはその後会いにも来ないし、連絡もない。
今までもニ週間くらい会わないことは普通にあったが、あんなことを言った手前、何だか気になって仕方がない。
「言い過ぎたのかしら」
そうは思うが、やはりヘンリーの攻撃はどうかと思う。
羞恥心が戻ってからというか、エミリオの一件があってから、何だか妙に羞恥心攻撃をかけてくるようになった。
あるいは今までも同様の攻撃を受けていたのかもしれないが、その頃には鉄壁の残念ブーストがあったのでまったくの無傷だったのだ。
今では半端な羞恥心と持って生まれた残念で生き抜いているので、正直、心もとない。
「そもそも、ヘンリーが攻撃してこなければ良いのよ」
とはいえ、まったく連絡もないとなると、イリスにも非があったのだろうかと心配になってくる。
会いに来いとは言わないが、たまには生存確認の連絡くらい欲しい。
……それとも、そう思うのもわがままなのだろうか。
「駄目だわ。全然わからない」
イリスはカップを置くと、立ち上がる。
どうせイリスには経験がないのだから、大した案は出ない。
こういう時には、友人達に話を聞いてみよう。
そう決めると、イリスは庭を出た。
「……それで、心配になったわけね?」
カロリーナは眉間に皺を寄せつつ、イリスの話を繰り返す。
「心配というか。私が悪いのかよくわからなくて。ヘンリーは怒っているのかな、って……」
イリスとカロリーナの視線の先には、お腹を抱えてテーブルに伏しているダニエラがいる。
カロリーナを訪ねるとちょうどダニエラが遊びに来ていたので、二人に事の次第を話したのだ。
……もちろん、キスのことは除いて。
「ちょっとダニエラ。話の途中なのよ?」
「だ、だって、カロリーナ! ……こんな、こん……ああ、駄目。お腹痛い」
ダニエラは文字通り、お腹を抱えて笑い続けている。
イリスが「ヘンリーを怒らせたかもしれない」と言った瞬間から、ダニエラは笑いを堪えていたのだが。
説明するにつれて、声を出して笑うようになり、しまいにはお腹を抱えだした。
「ちょっと……苦しい、息ができない。……カロリーナ、私死んじゃう! 惚気られて笑い死にしちゃう!」
聞いたこともない死因が飛び出したが、カロリーナは気にしていないようだ。
「はいはい。死なないから、一度呼吸を止めなさい。それでも止まらないなら、お腹に一撃入れてあげるわ」
カロリーナが拳をかざすと、指で了解のサインを出したダニエラがどうにか呼吸を整えた。
「……ああ、本当に死ぬかと思ったわ。友達の惚気話で笑い死になんて、それこそ笑い話だわ」
「大丈夫? ダニエラ」
よくわからないが、イリスが話をし始めてから笑っているのだから、イリスのせいなのだろう。
「大丈夫よ、イリス。でも、惚気話はもう少しマイルドにお願いね。腹筋が死んじゃうから」
「え? 私は相談してるだけなんだけど……」
首を傾げていると、カロリーナがダニエラの肩を叩く。
「相談するだけ進歩よ。羞恥心を取り戻しただけ成長だわ。……そう思えば、生温かい心で見守れるでしょう?」
「……そうね。今までのヘンリー君を思えば、寧ろよく我慢しているわよね」
二人は何か通じ合うものがあるらしく、互いにうなずいている。
だが、イリスにはよくわからない。
「……あの。それで、どう思う?」
恐る恐る聞いてみると、ダニエラがイリスの手を握りしめた。
「どうもこうもないわ。ヘンリー君はイリスに夢中だから、安心しなさい」
「ええ? 何だか投げやりじゃない?」
適当に収められている気がするのは気のせいだろうか。
「ヘンリーが怒っているのかってことなら、絶対に怒っていないから大丈夫よ。連絡不足については、私からも言っておくわ。だから、心配しなくて良いのよ」
何だか腑に落ちないところはあるものの、カロリーナにまでそう言われれば、納得するしかない。
「……わかったわ。なら、もう帰るわね。ダニエラはまだお話があったんでしょう?」
「そうね。少しお腹を休ませてから帰るわ」
「うん。二人共、ありがとう」
とりあえずヘンリーは怒っていないらしいとわかっただけでも、イリスの心は軽い。
そう言えば、最近は馬車ばかりで歩いて帰ることもなくなった。
今日は良い天気だし、久しぶりに散歩したいところだ。
カロリーナの部屋を出たところで知った顔を見つけたイリスは、笑顔で彼に近付いた。
「付き合ってくれてありがとう、ビクトル」
「いえ。大した距離ではありませんし、構いません」
笑顔の青年はそう言ってイリスの隣を歩く。
ビクトルの姿を見つけたイリスは、帰り道の散歩の同行を頼んだ。
一人で出歩くなと言われてはいるが、同行者がいれば散歩しても問題ないからだ。
「でも、忙しいでしょう? 頑張って速く歩くわね」
「いえいえ。イリス様が一人で出歩く何十倍もマシですから、何ともありませんよ」
何だか微妙な返答ではあるが、とりあえずは感謝したい。
こうして外を歩くのも久しぶりだ。
家の周囲ならクレトと散歩しているが、それ以外はめっきり歩かなくなってしまった。
もっとも、普通の貴族令嬢はそもそも歩き回らないものだが。
「歩いていると、馬車では見えないものが見えたりして、楽しいの」
例えば道端の草花、それからよそのお屋敷の壁なども見ていると面白い。
「……最近、ヘンリー様に会っていませんよね?」
「え? うん。……忙しいのよね、きっと」
「まあ、確かにここ数日特に忙しいですが。それでもイリス様にご連絡が不足していましたね。申し訳ありません」
頭を下げるビクトルに、イリスは慌てて首を振る。
「いいの、大丈夫よ。元気ならそれで良いわ」
頭を上げたビクトルは微笑んで、次の瞬間、急に顔が強張った。
何だろうと思って視線をたどると、そこにはお店が並んでいた。
上品な建物の外観からして、貴族が顧客の店なのだろう。
看板の絵から察するに、どうやら宝飾品をあつかっているようだった。
その店の前に一台の馬車が停まっている。
馬車から出て来た男女を何となく見ていたイリスは、男性の顔で視線が止まった。
「……ヘンリー?」
隣でビクトルが息を呑む音が聞こえる。
少し遠いけれど、見間違えるはずがない。
馬車から降りて女性に手を貸しているのは、確かにヘンリーだった。