人並みって、どのくらいですか
「わかりやすく?」
「このハンカチにモレノの紋章と俺のイニシャルが入っているから、俺の所に届けられるんだ。イリスのイニシャルも入れよう」
「え?」
「二人のイニシャルを入れておけば、見た人にも俺達の仲が伝わるだろう?」
イリスの眉間に一気に皺が寄り始める。
何だか、ヘンリーが恥ずかしいことを言い出した。
これは攻撃か。
攻撃なのだろうか。
警戒するイリスを見て笑うと、ヘンリーはソファーから立ち上がる。
「善は急げだ。今からやろう」
「今からって。……時間はあるの?」
ヘンリーはいつも忙しいし、会いに来てもすぐ帰ることが多かった。
「今日は夜まで大丈夫。イリスと二人きりでゆっくり過ごせるよ」
後半に余計な攻撃が付いてきたが、ゆっくりできるというのはちょっと嬉しい。
「……やろう、って。自分で刺繍するってこと?」
ヘンリーはうなずくと、ダリアを呼んで道具を用意するよう指示した。
ヘンリーはイリスに渡したハンカチを取り上げると、代わりに自身のポケットから取り出したハンカチを手渡す。
「互いに、相手のイニシャルを入れれば良いだろう」
既に片方は刺繍されているのだから、確かにそうだが。
「だったらわざわざ交換しなくても、自分のイニシャルを刺繍する方が早いんじゃないの?」
「それじゃ、自分のハンカチに自分のイニシャルを入れて終わりだろう?」
「うん。それで良いじゃない」
「嫌だね。俺は、イリスが俺のイニシャルを刺繍したハンカチが欲しい」
「――は?」
にこりと微笑むヘンリーを見て、イリスの眉間に再び皺が寄る。
攻撃か。
やはり攻撃なのか。
これは、迎撃するべきなのか、撤退するべきなのだろうか。
「だ、大体、ヘンリーは刺繍できるの?」
「人並みには、できるよ」
まさかの返答に、イリスは目を丸くする。
一般的に刺繍は女性の嗜みだ。
男性が刺繍をするのは珍しいが、そういう趣味もあるのかもしれない。
なるほど、ヘンリーは意外と乙女な趣味を持っていたようだ。
残念な乙女心のわからない男だが、自身の心は乙女だったのか。
それは知らなかった、と婚約者の意外な一面に驚く。
「……何を考えてるか大体わかるけど、違うぞ。大抵のことは一通りできるように仕込まれてる、って言っただろう?」
確かに、以前そんなことを言っていた気はする。
「でも、刺繍もなの?」
絶対に侯爵令息に必要ないだろう。
モレノの『一通り』の範囲が怖いのだが。
この調子では、縫物や編み物もできそうだから恐ろしい。
「そういうイリスは大丈夫?」
「私は残念な人間だけど、一応女子よ?」
曲がりなりにも伯爵令嬢として生きてきたのだ。
最低限の趣味教養はこなせる……はずだ。
「なら、問題ないだろう」
そう言われてしまえば、断りづらい。
仕方ないので、刺繍を始めることにした。
元々白いハンカチに白い糸でイニシャルを入れてあったので、それに合わせて白い糸を使う。
いざ始めてしまえば、作業に集中する。
やるならとことんやるという性質のイリスなので、綺麗に仕上げようと頑張った。
しばらくの間集中して刺繍し続け、出来上がりに満足したイリスは自分の作品を見てうなずく。
少し曲がった気もするが、あとは完璧だ。
ふと視線を感じて見てみれば、ヘンリーがこちらを見て微笑んでいる。
「何?」
「いや。真剣なイリスを見るのも良いな、と思って」
どうしよう。
うっすらと攻撃の気配を感じる。
少しばかり横に移動してヘンリーとの距離を取っておく。
「ヘンリーは終わったの?」
「ああ」
「なら、言ってくれれば良いのに」
「こうしてイリスの横顔を見る機会も、なかなかないからな」
「そんなの、見ても面白くないでしょう」
「……どうかな」
そう言って、イリスの手にハンカチを乗せる。
ヘンリーの刺繍した部分を見て、イリスは絶句した。
――滅茶苦茶、上手。
ミシンで仕上げたかのように、寸分の狂いもない美しい出来上がりに、感動を超えて恐怖さえ覚える。
『人並み』の刺繍でこれなら、他の『一通り』のクオリティもさぞや恐ろしいのだろう。
モレノの跡継ぎ、怖すぎる。
イリスだって、別に下手ではない。
だが、明らかに技量の差がある。
しかも、ヘンリーの方が出来上がりも早かった。
これは、女子としてかなり残念なことになっているのではないか。
何だか恥ずかしいやら、情けないやら、申し訳ないやら。
無言でイリスのハンカチを求めるヘンリーの手から視線を逸らすと、今度は言葉で求めてきた。
「はい。イリスの、ちょうだい」
「や、やだ」
「どうして?」
何の邪気もなく問うところからすると、イリスの葛藤には気付いていないのだろう。
「……ヘンリーの方が上手だし。……恥ずかしい」
「何を言うのかと思えば。別に、イリスの刺繍、下手じゃないだろう」
そう言って手元を覗き込むので、慌ててハンカチを下げる。
下手じゃないのはわかっている。
そうじゃなくて、ヘンリーの刺繍が機械レベルだから、見せるのが恥ずかしいと言っているのだ。
「両方のハンカチにイニシャルが二つ入ったんだから、このままお互いに持っていても良いんじゃない?」
我ながら良案だと思ったのだが、ヘンリーの顔が曇る。
「それじゃあ、自分のハンカチに自分で刺繍して持ち歩く残念な男じゃないか」
「良いじゃない。残念ポイント稼げるわよ。万が一に備えて、ポイント稼ぎは大切よ」
フォローしつつ、ハンカチを持った手を背中に回して隠す。
すると盛大にため息をついたヘンリーが、イリスのそばに近付いた。
「……俺は、イリスのハンカチが欲しいな」
顔が近付いたと思うや否や、耳元でそっと囁かれる。
びっくりして固まった手からハンカチを取り上げられて、わざとやったのだと気付いた。
「――ずるい、卑怯!」
取り返そうと手を伸ばすが、立ち上がって手を上げられては小柄なイリスに勝ち目はない。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるイリスを見るヘンリーは楽し気で、それがまた悔しい。
「イリスには、これ」
ヘンリーに握らされたハンカチを見てみれば、やはり上手だ。
色々悔しくて、頬を膨らませる。
それを見たヘンリーは笑うと、そのままイリスの膨らんだ頬に口づけた。
突然のことに、イリスは唖然とする。
事態を理解すると、羞恥心が手と手を取り合ってイリスを攻め立てた。
「リ、リハビリ中だって言ってるのに!」
抗議の声を上げるが、ヘンリーはしれっとして微笑んでいる。
「うん。だから、これで勘弁してあげる」
あまりのことに、ついに羞恥心の限界が突破された。
「――馬鹿! しばらく、近寄らないで!」
必死に叫ぶと、イリスは部屋を飛び出した。