ジュースは、肉汁入りでお返しします
秋の夜会が終われば、シナリオではリリアナへの嫌がらせが本格化し、イリスがレイナルドに執着するころだ。
だが、妙なことになっていた。
レイナルドは婚約が白紙になった後も、何かにつけてイリスに絡んでくる。
今のところ、残念力の高い肉作戦でどうにかなっているが、何を考えているのかさっぱりわからない。
『碧眼の乙女』の強制力なのだとしたら、イリスと婚約するまでレイナルドは絡み続けてくる可能性がある。
正直、うっとうしい。
リリアナはヘンリーにアプローチしているようなのだが、これも強制力の一環だろうか。
イリスとレイナルドが婚約すれば、シナリオ通りにレイナルドと恋に落ちるのかもしれない。
つくづく、強制力が恐ろしい。
ここまでは、納得はできなくてもそれなりに察することができるのだが、それだけでは終わらなかった。
何故か、リリアナがイリスに嫌がらせのようなことをし始めたのだ。
シナリオとは、まったくの逆である。
最初は気のせいかと思っていた。
だが、肉の乗ったお皿とイリスの服に盛大にジュースをこぼして「あら、柱にぶつかったかと思ったわ」と笑ったのを見て、これはわざとやっているようだと確信した。
柱にぶつかったようだなんて、ボリューム調整を褒めてくれたのはありがたいが、肉の皿を駄目にしたのは許し難い。
肉は残念作戦の主力武器だ。
リリアナの行為は、武士の鞘当てに等しかった。
「あら、飲み物を駄目にしてしまったわね」
イリスはリリアナの持っていたコップを取り上げると、皿を傾けて肉汁の混じったジュースを注いで手渡した。
多少の肉も入ってしまったが、それはサービスということで。
「どうぞ」
ジュースでベトベトになった手袋で、しっかりとリリアナの手を握るのも忘れてはいけない。
笑顔で肉入り肉汁ジュースのコップを渡されたリリアナは、しばし呆気に取られていたが、すぐにコップを床に叩きつけた。
「ふざけないでよ!」
「……何してるんだ」
リリアナが叫んだ背後から、ちょうどヘンリーがやってきた。
ヘンリーはジュースまみれの肉の皿とイリスを見て、一気に眉間に皺を寄せた。
リリアナの顔色があっという間に青くなっていく。
「ヘンリー様、これは」
「行くぞ、イリス」
ヘンリーはリリアナを一瞥することもなく、イリスの手を掴んで立たせるとテーブルから離れようとする。
「でも、まだ肉が」
難を逃れた肉もいるのだ。
見捨てるわけにはいかない。
彼らはこの残念な戦いの戦友なのだ。
「事情を言って片付けてもらえばいい。そんな恰好でいたら、風邪をひくぞ」
「着替えなんて持ってないし、これくらい平気よ。ちょっとベトベトして、爽やかな柑橘の香りに包まれるだけだわ」
何せ、この上なく残念な状態なのだから、もう少し残念アピールをしていたい。
次、いつジュースをかけられるかわからないのだ。
使えるものは使いたい。
どうせなら、濃い色のジュースにしてもらうと、更に残念度が上がって好ましい。
「駄目だ。だったら、家まで送る」
そう言うなり、自分の上着を脱いでイリスに羽織らせる。
「いいわよ、寒くないし。ヘンリーの服が汚れちゃうじゃない」
「いいから着ていろ」
ヘンリーは有無を言わせない迫力で、イリスの手を引く。
食堂から出る間際に振り返れば、リリアナが険しい表情でこちらを見ていた。
これは、次回も期待できるかもしれない。
今度は葡萄か木苺のジュースでお願いします、と心の中でリクエストしておく。
「あれは、ジュースをかけられたんだよな?」
ヘンリーが用意した馬車に乗ると、おもむろに問われる。
「本人は柱にぶつかったと思ったらしいわよ」
スナップの効いた良いぶっかけ方だったので、故意であることはわかっているが、残念ボディを褒めてくれたのはちょっと嬉しい。
努力が少し報われた気がする。
さすがはヒロイン。
相手の喜ぶポイントを心得ている。
「誰が信じるんだそんな嘘。……まさか、いつもあんな目に遭っていないよな?」
「こんなにわかりやすく嫌がらせしてきたのは、今日が初めてよ。明日が楽しみね」
たとえ『碧眼の乙女』の強制力だとしても、リリアナは今はヘンリーにアピールしている。
となれば、わかりやすく嫉妬ということだろう。
残念令嬢としての活動に協力してもらっているので、イリスとヘンリーは一緒にいることが多い。
そこを何か勘違いしたのだろう。
イリスはヘンリーに夢中という設定なのだから、勘違いされるのは正解だ。
では、どうすればより残念になるだろう。
回避は駄目だから、ジュースを避けてはいけない。
逃避は駄目だから、リリアナから逃げてはいけない。
応援は駄目だから、リリアナとヘンリーの仲を取り持ってはいけない。
となると。
「……リリアナさんに、ヘンリーと一緒にジュースを手渡せばいいのかしら?」
「何でそうなるのかわからんが、やめておけ」
イリスの辿り着いた答えに、ヘンリーはため息をついた。
「イリス・アラーナさん、ちょっといいかしら」
一瞬リリアナかと身構えたが、瞳の色が琥珀色ということは、この美少女はセシリアなのだろう。
今まで話をしたこともないが、何の用だろう。
もしかして、リリアナの応援でイリスに釘を刺したりするのだろうか。
これは、なかなか残念な予感がする。
イリスはうなずくとセシリアについて行った。
「あなた、ちゃんとレイナルド様の気持ちを汲んであげてちょうだい」
人気のない裏庭まで移動すると、セシリアはそう言った。
「レイナルドの、気持ち?」
リリアナと想い合っているから邪魔するなということだろうか。
でも、今リリアナはヘンリーにアピールしている。
となると。
「……リリアナさんがヘンリーと上手くいかないように邪魔してほしいということ?」
「何でそうなるのよ」
セシリアが顔をしかめる。
リリアナと同じヒロインフェイスなのだから、そんなもったいない表情をしてはいけないと思う。
「レイナルド様はあなたと婚約するつもりなのよ。もともとその予定だったんでしょう?」
何で知っているんだ。
いや、それよりも、セシリアはおかしなことを言っている。
「それじゃ、リリアナさんとレイナルドが破局しちゃいますよ」
「これもリリアナのためよ。今は自分のことが見えていないけれど、いずれわかってくれるわ」
セシリアはリリアナの味方だろうに。
何故そんなことを言い出すのか。
リリアナのためを思うなら、イリスが関わらずにレイナルドと上手くいくのがベストだろう。
それとも、リリアナとヘンリーが上手くいってほしいから、レイナルドを抑えておけということだろうか。
よくわからない。
イリスとレイナルドが婚約しないと困るなんて、まるで『碧眼の乙女』のシナリオのようだ。
「みんなで幸せになるために、まずは婚約しないと話が進まないんだから、困るのよ」
セシリアが小さな声で、ぽつりと呟いた。
その瞬間、イリスの全身に鳥肌が立った。
「それじゃ、頼んだわよ」
セシリアが立ち去った後も、イリスはその場を動けない。
リリアナの幸せを考えるなら、レイナルドと結ばれれば良いだけだ。
ヘンリーと結ばれるとしても、イリスとレイナルドが婚約する必要性は微塵もない。
だが、『碧眼の乙女』のシナリオとしては、イリスの婚約が必要だ。
イリスとレイナルドが婚約し、イリスがレイナルドに執着して嫌がらせをして、それをリリアナが乗り越えてこそのハッピーエンドなのだ。
そして、話が進まないというセシリアの言葉。
「……まさか、転生者?」
今まで考えたこともなかったが、イリスと友人達が悪役令嬢に転生しているのだから、他に転生者がいてもおかしくない。
転生者がヒロインの味方だとすれば、こんなに手強い敵はいない。
まだ断定できないけれど、可能性は否定できない。
今まで『碧眼の乙女』の強制力だと思っていたものも、彼女の力だったのかもしれないのだ。
「この方向の残念は、想定外だったわ」
イリスは庭に座り込むと、途方に暮れた。