番外編 ヘンリーの消毒
剣を持った男達が現れたことで、木陰に隠れていたヘンリーも参戦しようと動き始めた時だった。
イリスが右手に持っていた肉を奪われ、振り返った瞬間。
エミリオはあっという間にイリスに唇を重ねた。
その瞬間、ヘンリーの中の『毒』が一気にざわめくのがわかった。
――ふざけるな。
瞬時に沸いた怒りと共に、ヘンリーは駆け出していた。
「……情報料。安いものだろう?」
イリスは手を振り上げるが、あっさりと手首を掴まれる。
非力な細腕では、到底太刀打ちできない。
それを嘲笑うかのような笑顔に、ヘンリーの怒りは更に増した。
イリスが口を開くより先に、エミリオの首に剣を突き付ける。
「剣か、『毒』か。――選べ」
ヘンリーの低い声があたりに響いた。
「……公爵家の次期当主に剣を向けて、おまえも無事でいられるとは限らないぞ。いくら陛下のお気に入りでも、侯爵家と公爵家の差は大きいからな」
……ヘンリーのものに手を出しておいて、何を言っているのだろう。
エミリオは、自分がどれだけ愚かなことをしたのか、わかっていない。
確かに、一時の感情で『モレノの毒』を使用するのは、決して褒められたことではない。
だが、何事にも例外がある。
オリビアの場合は、恋人ですらない相手に関しての嫉妬だった上に、指示に従わなかったので認められない。
だが今回エミリオは、婚約者であるイリスに明確な意思を持って手を出した。
それも、継承者であるヘンリーの『毒の鞘』候補に。
この意味がわかる先代当主や国王なら、『毒』の使用を許可しただろう。
実際、ルシオがイリスを攫った際には、フィデルは王族であり弟であるルシオに対して『毒』の使用を認めている。
一刀両断しても構わなかったのにそれをしなかったのは、相応の苦痛を与えようとしたためだ。
公爵家の次期当主であろうとも、ヘンリーの逆鱗に触れたのだから関係ない。
それに公爵家と侯爵家の差と言うが、それも見当外れな話だ。
次期当主と言ってはいるが、『モレノの毒』について噂程度にしか知らないというくらいだ。
きっと、わからないのだろう。
もっとも、ヘンリーがどんな存在なのかは、王族のシーロですら正確には知らないようだから、無理もない。
だが、無知だからと許される話ではない。
愚かな男に声をかけようとすると、イリスがヘンリーの手を引いた。
「――大丈夫だから。減るものじゃないし、情報料だから。残念が移ってろくな目に遭わないだろうから。大丈夫だから。……やめて」
我慢しているのは、顔を見ればすぐにわかる。
ヘンリーの『鞘』は、嘘をつくのが下手だ。
なのに、苦しそうな顔をしながらも、止めようとしている。
一番嫌な思いをしたのは、自分だろうに。
「イリスに免じて、俺に剣を向けたことは見逃してやるよ」
エミリオが笑って骨付き肉をかじる。
見当違いもここまで来ると清々しいが、今は構っている場合ではない。
「イリスは、それで良いのか」
「……大丈夫」
イリスは口をごしごしと手で擦ると、ヘンリーに背を向けた。
目が潤んでいたのは、気のせいではないだろう。
イリスに手を出したのは、許し難い暴挙だ。
だが、イリスがこうして止めるのは、ヘンリーを守ろうとしたためなのだろう。
結婚して正式に『毒の鞘』になっていない以上、イリスが知らないことは多い。
きっと、ヘンリーが公爵家に睨まれるのは良くない、と心配しているのだろう。
自分のことよりも、ヘンリーの安全を優先しようとしてくれたのだ。
そこまでの覚悟ならば、ヘンリーも自身が選んだ『鞘』の判断に従わざるを得ない。
もちろん、エミリオにはいずれこの代価は支払ってもらうつもりだが。
剣を鞘に戻すと、エミリオは勝ち誇ったように笑みを浮かべているが、既にヘンリーの中ではどうでも良い。
それよりも、やらなければいけないことがある。
「――ビクトル、しばらくもたせろ」
「はいはい」
ぞんざいに返事をすると、ビクトルはイリスの前に立って剣を構える。
ヘンリーは細い腕を引くと、向き合ってその金の瞳を見つめた。
「ヘンリー?」
無言のまま、イリスの顔に手を伸ばす。
一瞬体を引いた様子に、やはり先刻の恐怖があるのだとわかる。
そっと頬に触れると、親指の腹でゆっくりとイリスの唇をなぞる。
ここに自分以外が触れるなど、あってはならない。
なかったことにしなくてはならない。
何より、イリスの恐怖を塗り替えたい。
「……ヘンリー?」
何も言わずにそのまま顎をすくいあげると、両手でイリスの頬を包みこむようにして唇を重ねた。
柔らかい感触の唇も、滑らかな頬も、すべてヘンリーのものだ。
誰にも譲りはしない。
「――ん」
イリスが胸を叩くが、そのまま動かない。
「――んん!」
しばらく口づけると、必死に胸を叩き続けたイリスを開放する。
赤い顔で呼吸が乱れる様も可愛らしいのだから、困る。
「な、何するの」
そんなもの、答えは一つだ。
ヘンリーは、ぺろりと自分の唇を舐めた。
「――消毒」
イリスにキスをしたことはあるが、目を閉じていたし、気付いていないような反応だった。
ということは、イリスからすればヘンリーよりも先にエミリオとキスした、ということになる。
その認識が気に入らなかったし、自分以外のものを消し去ってやりたかった。
言葉を失ってこちらを見ているところから察するに、よほど驚いたのだろう。
イリスにとっては、ヘンリーとの初キスなのだから仕方ないのかもしれない。
ヘンリーは今まで、鈍感で残念なイリスに合わせて、大事に見守ってきたつもりだ。
だが羞恥心を少しは取り戻して、女性らしい反応もたまには見せるようになってきた。
これからは、もうちょっとスキンシップを増やしても良いのかもしれない。
ヘンリーの我慢もそろそろ限界、というのもある。
慌てるイリスの様子が今から目に浮かんで、思わず笑みがこぼれそうになる。
少しずつ、慣らしていこう。
――まずは、『消毒』からだ。