番外編 ビクトルの疲労
その日、ビクトルとヘンリーが仕事を終えてモレノ邸に戻ったのは、深夜だった。
しばらくは忙しくなりそうで、日程調整を話し合いながらの帰宅だった。
時間が時間だったのにもかかわらず、何故か当主コンラドの執事が出迎えてくれる。
この時点で、ビクトルは嫌な予感がしていた。
「お帰りなさいませ、ヘンリー様」
「ああ。……何か、あったのか?」
「ドロレス様とオリビア様が、昼に本邸を発ちました」
「ああ」
それは知っていたので、特に驚くこともない。
「カロリーナ様も同行しています」
「カロリーナが? ……まあ、あいつも婚約してからまだ祖父さんに会っていないと言っていたからな」
ついでだから、一緒に報告に行くのだろう。
これも、取り立てて驚くことではない。
「そのカロリーナ様に、イリス様も同行しています」
「――はあ?」
ヘンリーが素っ頓狂な声を上げて、言葉を失っている。
イリスが婚約者の祖父であるロベルトに挨拶に行くのは、別に問題ない。
だが、それはヘンリーと共に行くのが普通だろう。
大体、イリスは『鞘』の試験後に寝込んで、昨夜の婚約披露パーティーで疲れ切っていたはずだ。
何故、このタイミングで同行しなければいけないのだろう。
「ご存知なかったのですね、やはり」
「それだけのためにおまえが待っているわけもないだろう。何かあったのか」
「話が早くて助かります。……イリス様が狙われているようです。この数日中に動きがあると思われます」
「……昼に発ったのなら、今夜は『モレノの宿』か。――ニコラスを向かわせろ。イリスの護衛をし、本邸に戻るよう伝えてくれ。俺は明日の仕事が終わり次第向かう。明後日には『モレノの宿』で合流できる」
「かしこまりました」
短く返答すると、執事は下がる。
当主ではなくヘンリーに指示を仰ぐのは、イリスはまだ婚約者であり、ヘンリーの管轄下だからだ。
まだモレノの身内として当主が保護する段階ではないし、婚約者の身は自分で守れということでもある。
「……仕事を放り出していくかと思いましたが、安心しました」
「俺が行かないと意味がないんだから、仕方がない」
ヘンリーはそう言いながらソファーに座ると、肘掛を指で叩き続けている。
本当なら今すぐ出発したいのだろう。
「……なあ、何でイリスも行ったと思う?」
「ロベルト様に、ご挨拶するのでは」
「イリスは寝込んでいたし、昨日だって帰りは上の空だった。話もろくに聞いていないくらい、疲れ切っていた。なのに、馬車での長旅にわざわざ行くか?」
「カロリーナ様が誘ったのかもしれませんね」
「イリスの体調はカロリーナも知っている。無理をさせるとは思えないが」
ビクトルはため息をつくと、ヘンリーに紅茶を差し出す。
「つまり、何を懸念しておいでで?」
「……あいつ、また何か勘違いしているんじゃないかな」
「勘違い?」
「前にあったんだ。俺が残念な恰好が好きなんだと思って、ずっと着続けて、倒れた」
「なるほど。……惚気ですか」
「そうじゃない」
『イリスは俺のことが好きだ』という惚気にしか聞こえないのは、ビクトルの気のせいだろうか。
「あいつ、体力はないのに、無駄に行動力はあるんだ。しかも、残念な上に方向がおかしい」
「なるほど。……惚気ですか」
「そうじゃないだろう」
もはや、『だから俺が守らないと』という惚気にしか聞こえないのだから、ビクトルもだいぶ毒されている。
「何にしても、何かあったんだろう。……あれだけ俺を頼れと言っているのに、いつになったらわかるんだ」
「……惚気ですね」
カップを揺らして波立つ紅茶を眺めるヘンリーを放って、部屋を出る。
明日も朝は早い。
どうせ仕事の後にはすぐに移動になるのだろうから、もう寝よう。
そう決めると、ビクトルは足早に自室に向かった。
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「あとは、俺が同行する。ニコラスは仕事に戻れ」
「やれやれ。本当に『毒』使いの荒い次期当主だよ」
馬車の扉が開くと共に声が聞こえ、ヘンリーが乗り込んできた。
「ヘンリー、顔に血がついてる」
イリスはハンカチを手にして立ち上がるが、何故かそこで動きが止まる。
沈黙の後、鋭い下手投げでハンカチをヘンリーに投げつけた。
ヘンリーのお腹に勢い良く突撃する形で受け取られたハンカチに、馬車内の全員が思わず注目してしまう。
「……どういう渡し方だよ。普通に渡せばいいだろう」
「手が滑ったのよ」
……どういう滑り方だ。
思わずビクトルは心の中でそう言ったが、どう考えても何かあったとしか思えない。
ビクトルでさえ気付くのだから、ヘンリーがわからないはずもない。
どうやらイリスは腕と背中を傷めたらしかった。
背中が痛いから、背もたれを使いたくない。
揺れる体を腕で支えられないから、座って揺れ続ければ疲れる。
そこまでは、何となく想像できるのだが。
何故、イリスは馬車の中で立っているのだろう。
「……イリス、いつまでそうしているつもりだ?」
「いつまでって、到着するまでよ」
足を開いて立ち、揺れに合わせて体重移動をする。
体力がないと評判だったイリスだが、バランス感覚は悪くないらしく、思いの外上手に立ち続けていた。
「これも、昔取った杵柄って言うのかしら」
「何がだ?」
「何でもない」
よくわからないことを言っているが、これが残念というやつなのだろうか。
カロリーナは笑いを堪えているが、これは笑い事ではない。
相談もなくイリスに出掛けられ。
すぐに駆け付けることもできず。
襲撃されているところにギリギリで到着し。
イリスは怪我を負っていて。
馬車内で立っている。
是非ともヘンリーの渋面を見てほしい。
もう、そこそこの限界なのだ。
さっさとヘンリーの隣に座ってほしい。
何ならヘンリーにもたれて、「怖かった」とか言って、くっついていてほしい。
端的に言うと、甘えてあげてほしい。
そうでもしないと、あの不満そうな気配は収まらない。
だがビクトルの願いも空しく、イリスは意気揚々と立ち続けていた。
しばらくしてさすがに体力の限界が近くなったのか、何度か足の力が抜けてバランスを崩すようになってきた。
慌てて持ち直す姿に、ヘンリーがため息をついている。
「……いつまでそうしているつもりだ? 座って眠れば良いだろう」
「平気。眠いだけ」
「だから。眠いなら、眠れよ」
会話をしていても意識を飛ばす様子は、まるで幼子だ。
危うく壁にぶつかりそうになったイリスは、咄嗟に手を出そうとして、痛みに呻いている。
そのまま頭を壁にぶつけながら手の痛みに耐える姿に、ついにヘンリーが立ち上がった。
「……もう、いいから、眠れ」
イリスを引きずるように座席に座らせると、自身の胸にイリスの頭を抱える。
限界が来たのは、ヘンリーも同じらしい。
返事をする間もなく眠りについたイリスを見る顔は、優しく、甘い。
ビクトルの方が恥ずかしくて、目を背けたいくらいだ。
「あんた、本当に変わったわよね」
カロリーナは呆れながらそう言うと、椅子の下から毛布を取り出してイリスにかける。
ヘンリーは特に返事はせず、イリスの頭を撫でている。
『……あれだけ俺を頼れって言っているのに、いつになったらわかるんだ』
あの言葉が、すべてを物語っている。
ヘンリーは、イリスに頼られたいのだ。
いかれた剣の腕前を持ち、破格の『毒』を有する次期当主が、随分と可愛らしい願いを持ったものだ。
だが、相手は一筋縄ではいかない残念な御令嬢である。
それでも良いのだろうから、ビクトルの主人もまた、残念なのかもしれなかった。