番外編 ニコラスの想像
あのヘンリーが、婚約者を――『毒の鞘』を選んだ。
それを聞いて、ニコラスはそれなりに衝撃を受けた。
先代当主のロベルト以来、『モレノの毒』の継承者は生まれなかった。
暫しの空白期間の後、ようやく生まれたのがニコラスだ。
モレノは『毒』の継承者が当主になるのが決まりなので、ニコラスは紫の瞳を持って生まれた時点で次期当主の候補となったらしい。
だが、ニコラスが四歳の時にヘンリーが生まれて、それは保留となる。
ヘンリーもまた、紫色の瞳を持っていたからだ。
その後オリビアも生まれたが、瞳の色からして当主の器ではないと判断された。
事実上、ニコラスとヘンリーの一騎打ちだったわけだが、それはあっさりと決着がついた。
ヘンリーの『毒』は、既にニコラスどころか、ロベルトをはるかに凌ぐ強さだったのだ。
ニコラス十歳の時に正式にヘンリーが次期当主となったが、その時点でニコラスはヘンリーの『毒』の先輩であり、兄貴分であり、手足だった。
最初は年下の再従弟の面倒を見ているつもりだったが、長じるにしたがってヘンリーは非凡な力を見せつけてくる。
ほんの少し優秀だというのなら、ニコラスも嫉妬したのかもしれない。
だが、嫉妬する気にさえなれなかった。
嫉妬する隙すら与えてくれなかった、と言った方がいいかもしれない。
モレノに生まれ、『毒』の継承者である以上、家業に関わって生きていく。
だったら、この幼い次期当主を支えるというのも、面白い。
そう思って日夜仕事に明け暮れていたのだが、まさかヘンリーが『鞘』を選ぶとは。
ヘンリーを心配したロベルトが縁談を持ってきてはそれを蹴散らしていたのに、どういう風の吹き回しだろう。
もしかして、ヘンリーに負けないくらい強い女性を見つけたのだろうか。
ちょっと怖いが、それくらいでなければとてもヘンリーの『鞘』など務まらない。
剣が使え、体術もそれなりで、腹黒く、打たれ強くないと。
いっそ、現当主の妻ファティマのように薬や毒に精通しているのも良い。
……もう、伴侶と言うよりは仕事の相棒だ。
どう想像しても、屈強な肉体の剛毅な女性しか思い浮かばない。
だから、ニコラスは噂の『イリス』を、そういう人間だと思い込んでいた
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――あいつ、ただの面食いだったのか。
イリスを初めて見た瞬間に浮かんだ感想は、それだった。
黒髪に金の瞳という色合いは、ヘンリーの姉のカロリーナと同じだ。
だが、だいぶ雰囲気が違う。
イリスは華奢な体つきだし、白い肌に綺麗な顔立ちが映えて、まるで人形のような可愛らしさだ。
屈強とは程遠い肉体だし、あの細い腕では剣を持っても振るえないだろう。
そういう資質で選んでいないのだろうというのはわかったが、そうすると何故彼女を選んだのか。
ドロレスから、オリビアの『毒』を解除したと聞いたので、魔力の方は相当な資質を持っているのだろう。
だが正直なところ、『毒』を解除するようなことはほとんどない。
かなり珍しいし凄いが、実生活では使い道がない残念な能力なのだ。
……やっぱり、ただの面食いなのか。
恋人を選ぶのなら、それでも良い。
だが、ヘンリーの伴侶は『毒の鞘』だ。
もう少し考えなければ、相手の身も危険だとわかっているだろうに。
破格の力の持ち主とはいえ、まだ少年だ。
さすがに美少女には抗えなかった、ということかもしれない。
そう考えると、あのヘンリーも少しは可愛く見えてきて、ニコラスは思わず笑った。
話を聞いてみれば、イリスを害した報復にヘンリーは王族に『モレノの毒』を盛っていた。
床をのたうち回ってわめくようなものを、ひと月継続させたという。
それも、せいぜいひと月、らしい。
全力でも、ひと月継続するような『毒』を使える継承者はほとんどいない。
相も変わらずおかしな力だが、それをイリスのために使ったというのだから、相当怒ったのだろう。
それほど大事にしているのに、イリスは『いかれたドレスを着る女』と言われたという。
「王族に『毒』を盛るくらい大切な『鞘』に、いかれたドレスなんて言うヘンリーも大概だが。それで頬を染めるのもおかしいと思うんだが」
「……この二人は、ちょっと色々残念がこじれているのよ。見守ってあげて」
カロリーナが訳ありといった顔でニコラスに囁く。
どうやら、イリスはただの美少女というわけではないらしい。
残念という響きに一抹の不安を感じつつ、ニコラスはため息をついた。
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「カロリーナ。イリスを連れて馬車に戻れ。ビクトルも、下がれ。――邪魔だ」
「じゃあ、俺も……」
「おまえは残れ、ニコラス」
「俺がいても邪魔だろう?」
「逃げたやつを追え」
「ヘンリーが逃がすわけないだろうが。何? 嫌がらせか?」
「黙って、従え」
「……はいはい。仰せの通りに」
「……さて」
ヘンリーは視線を男たちに移すと、静かに微笑む。
「俺の『鞘』に手を出したんだ。――覚悟はできてるんだろうな」
ヘンリーは剣に手をかけると、ゆっくりと鞘から引き抜く。
刃に光が反射して、輝いている。
ビクトルが馬車の扉を閉めたのを横目で確認すると、今度は冷たい笑みを浮かべた。
「……やっぱり、俺、いらないじゃないか」
優雅に舞うように剣を振るうヘンリーを見て、ニコラスはため息をついた。
ニコラスだって、別に弱くはない。
ただ、ヘンリーがいかれた腕前というだけだ。
一応理性は働いているらしく、殺してはいない。
というか、切りつけていない。
ヘンリーの剣は片刃だが、峰と柄で殴打している。
手首と鳩尾を狙っているようなので、しばらくは起き上がれないし、たぶん骨折している。
殺す気はないようだが、あれだけの人数を一斉に相手にして、手加減して倒す方がよほど難しいだろう。
「情報よりも早いし、人数も多い。……背後を調べる必要があるな」
あっという間にすべての男を地面に転がしたヘンリーが、剣を鞘に収めながら呟く。
「調査のために切らなかったってことかい?」
「それもあるが。……血が付くからな」
「はあ?」
何の冗談かと思ったが、ヘンリーの表情は真剣だ。
今更血が怖いだの言うわけもないのに、何なのか。
「血塗れじゃ、怯えるだろうが」
「……まさか、イリスかい?」
「他に誰がいる」
真顔で答えるヘンリーに、ニコラスも呆れてしまう。
「『毒の鞘』になるなら、そのくらいは慣れた方が良いんじゃないか?」
「必要なら、見せるよ。ただ、必要ないなら、見せたくない」
「どれだけ大事なんだ。確かに可愛いけど。あの細腕じゃ剣もろくに使えないだろう? ……正直、『鞘』を務めるのは厳しいんじゃないのか?」
ニコラスとしては、心配して言っているのだ。
ただでさえ、『毒の鞘』は狙われるのだから。
だが、そんなニコラスを鼻で笑うと、ヘンリーは馬車の方へと歩き出す。
「『鞘』を務められる女性を選んだわけじゃない。俺がイリスじゃないと駄目だから、選んだだけだ」
「……これは、惚気られてるのかい?」
「さあな。おまえも『鞘』が見つかればわかるさ」
馬車の程近くには、大柄な男が倒れている。
ヘンリーは足で男を転がすと、男の腰から短剣を取り出し、あっという間に腕に刺した。
男が痛みで叫びながら飛び起きると、短剣を素早く持ち替えて柄でこめかみを突く。
あまりの速さに、刃に付着していた血がヘンリーの頬に飛ぶ。
男はそのまま無言で地面に倒れこんだ。
わざわざ起こして尋問でもするのかと思えば、わけがわからない。
「血は見せないんじゃなかったのかい?」
「こいつは、イリスの腕を捻り上げていたからな」
わかりやすい報復だった。
いや、これぐらいで済んでいるのはイリスがそこの馬車に乗っていて、ヘンリーも同乗するからだ。
ヘンリーは人を傷つけるのは好きではないが、必要とあれば容赦はないのだから。
「一人別行動でイリスを狙ったんだ。こいつが一番事情を知っているだろう。ニコラス、任せた。すぐに『モレノの宿』の増援が来る」
なるほど。
『毒』を使った尋問の可能性があるから、ニコラスを残したのか。
「はいはい。……え、それまで俺一人でここにいるの?」
ヘンリーが言うのだから大した時間はないのだろうが、大勢の男が倒れた中にぽつんと一人というのはどうなのだろう。
「俺が乗ってきた馬がある」
「せめて会話できる相手にしてほしいな」
ニコラスの言葉を聞き流して、ヘンリーは馬車の扉に手をかけた。
「あとは、俺が同行する。ニコラスは仕事に戻れ」
「やれやれ。本当に『毒』使いの荒い次期当主だよ」
悪態をついてみるものの、こうして頼られるのは嫌いではない。
ニコラスをイリスに付けたのも、信頼の証だと思えば何だか嬉しい。
ヘンリーを変えたのはイリスに間違いない。
そんな風に変わってしまうのなら、ニコラスはまだ『鞘』は必要ないなと思ってしまう。
いかれた能力を持った我らの次期当主を守るためにも、まだニコラスは他に目を向ける余裕はないのだ。