消毒
「……公爵家の次期当主に剣を向けて、おまえも無事でいられるとは限らないぞ。いくら陛下のお気に入りでも、侯爵家と公爵家の差は大きいからな」
冷たい表情のまま何か言いかけたヘンリーを、慌てて手を引いて止める。
エミリオの言う通りだ。
モレノがどうあれ、次期公爵を傷つけて何もないわけがない。
「――大丈夫だから。減るものじゃないし、情報料だから。残念が移ってろくな目に遭わないだろうから。大丈夫だから。……やめて」
これでヘンリーに何かあったら、後悔してもし足りない。
キスが何だ。
ただ唇と唇が出会っただけだ。
だから、何でもない。
――何でもない。
必死に自分に言い聞かせるが、胸の奥が炎に焦がされたように息苦しい。
イリスは左手に残った骨付き肉を、ぎゅっと握りしめた。
「イリスに免じて、俺に剣を向けたことは見逃してやるよ」
エミリオが笑って骨付き肉をかじる。
それなりに下衆、というベアトリスの忠告が脳裏に蘇ったが、もう遅い。
「イリスは、それで良いのか」
ヘンリーに見つめられ、悔しさと恥ずかしさがこみあげてくる。
「……大丈夫」
口をごしごしと手で擦る。
少しでもエミリオの感触を消してしまいたかった。
泣きそうな顔を見られたくなくて顔を背けると、リリアナがこちらに向かってくるのが見えた。
目の前に火の玉が飛んで来たのを、凍結して相殺する。
凍結できている。
良かった、鍛錬は無駄じゃなかった。
こんな時でも集中できる。
もう一度口を拭うと、リリアナを見据える。
何故こんなことになっているかはわからないが、まずはリリアナと男達を止めなければ。
……考えるのは、その後だ。
「――ビクトル、しばらくもたせろ」
ヘンリーの低い声が背後から聞こえる。
「はいはい」
ビクトルはぞんざいに返事をすると、イリスの前に立って剣を構える。
リリアナの魔法を防ぐのなら、イリスでも問題ない。
寧ろ、遠距離でも対応できる分、凍結の方が相性が良いのではないか。
ビクトルに声をかけようとすると、腕を後ろに引かれた。
ヘンリーと向き合う形になると、じっと見つめられる。
「ヘンリー?」
ヘンリーは無言のまま、イリスの顔に手を伸ばす。
さっきのエミリオを思い出して、一瞬体が引けてしまう。
ヘンリーはそっと頬に触れ、親指の腹でゆっくりとイリスの唇をなぞった。
「……ヘンリー?」
ヘンリーは何も言わずにそのまま顎をすくいあげると、両手でイリスの頬を包みこむようにして唇を重ねた。
驚きすぎて何が起こったのかわからず、イリスは固まった。
左手に持っていた骨付き肉が、支えを失って地面に落ちる。
ヘンリーの手に包まれた優しい感触と、ありえない至近距離の顔に、イリスはようやく事態を理解した。
「――ん」
手でヘンリーの胸を叩くが、まったく離れてくれない。
「――んん!」
必死に胸を叩き続けると、ようやく解放される。
上手く息ができなかったせいで、呼吸が乱れた。
「な、何するの」
どうにか非難の言葉を口にすると、ヘンリーは冷たい表情のまま、ぺろりと自分の唇を舐めた。
「――消毒」
あんまりな言葉と妙な色気に、イリスは言葉を失う。
心臓が早鐘を打ちすぎて、胸が苦しい。
こんなの、イリスが知っているヘンリーじゃない。
誰なんだ、この男は。
言葉の出ないイリスの肩を、ヘンリーがポンポンと叩く。
「……あれ、防げるか」
指差したのは、リリアナの炎。
こちらはまだ鼓動が大運動会を開催中だというのに、どんな切り替えの早さだ。
呆れつつ感心していると、ビクトルが剣で炎を叩き落としている姿が目に入る。
……そうだ、今はそれどころじゃない。
「やってみる」
胸に手を当てて深呼吸すると、集中する。
イリスの周囲に冷気が生じるのがわかった。
まずはリリアナの靴と地面を凍結。
足を止めて集中力が削がれた瞬間に、指の間を凍結。
怒って大きな火の玉を発生させたところに、火の中を凍結させて消滅させる。
「な、何よこれ!」
リリアナが驚いて固まったところをビクトルが押さえこむ。
さすがのヒロインでも、男性の腕力にはかなわないらしい。
隙間凍結が上手くできたことに安心して、ほっと息をつく。
頭を撫でられたので見上げてみると、ヘンリーはいつもの顔に戻っていた。
「イリス・アラーナ! あなたのせいでヘンリー様に振られるわ、セシリアは何だか遠くの修道院に入れられたわで散々。なのに、自分だけヘンリー様と婚約なんて、許せない」
ビクトルに腕を押さえられた状態でやって来たリリアナは、可愛らしい顔を歪めながら叫ぶ。
久しぶりに見るが、やっぱり可愛らしい。
これが世界に望まれたヒロインの魅力というものか。
かつて嫌がらせをされ、ナイフを持ち出されたこともあるが、イリスの中では大きなわだかまりはない。
イリスに死んでほしいというのは、ある意味世界の代弁者だったわけだし、未遂で終わった。
本来ならばリリアナは誰からも愛される、文字通りのヒロイン生活だったはず。
それを阻んでしまった負い目がイリスにはあった。
「……リリアナさんは、何がしたいの?」
ビクトルに腕を離すようお願いすると、リリアナはその場に座り込んでしまう。
「私は、玉の輿に乗るのが夢だったのよ」
そう答えると、泣き出した。
たとえそうだとしても、普通は答えない気がする。
何ともわかりやすい、馬鹿正直なヒロインである。
「だったら、私を攻撃しても何にもならないわ。狙いを間違えてる」
「何ですって?」
イリスはしゃがみこむと、リリアナに視線を合わせる。
「リリアナさんは破格の可愛いらしさだし、魔法も使えるし、恐ろしいほどの優良物件なのよ。もったいない。真っ当に活用すれば、落ちない男なんていないのよ?」
「……そ、そう?」
「そうよ、誰もが惚れるわ!」
「そうよね!」
リリアナがイリスの手をぎゅっと握りしめる。
手まで色白で可愛いのだから、どこまでも揺るぎないヒロインだ。
「……何を応援してるんだ」
呆れたヘンリーの声に、己の過ちに気付く。
「え! 大変。応援は駄目よ。『碧眼の乙女』との戦いは、応戦しないと駄目なの」
「……何の話なの?」
リリアナが首を傾げているのを横目に見つつ、思案する。
……応戦。
イリスとヘンリーは婚約した。
リリアナは玉の輿に乗りたい。
イリスの金の瞳が煌めいた。
「――エミリオ様なんて、どう?」
「は? 誰よ、それ」
「エミリオ・バルレート公爵令息。ちゃんと跡継ぎよ。エミリオ様の妻は、公爵夫人。……どう?」
訝し気にイリスを見ていたリリアナの瞳に、炎がともった。
「イリス、勝手に何を言い出してるんだ、俺は」
エミリオが慌ててイリスのそばにやってくる。
「情報料は払いました。今のエミリオ様は、ベアトリスのお兄様。私は顔が良くて優秀な同級生を、友人の兄に紹介しているだけです」
「イリス、俺は君が」
イリスはリリアナの手を取って一緒に立ち上がると、エミリオを見据える。
「エミリオ様、乙女ゲームのヒロインを舐めては駄目ですよ。全身全霊をかけて逃げようとしても、惚れるのがヒロイン。生半可な対応では、掴まります」
「イリス!」
「エミリオ様、情報ありがとうございました。そして――恋に堕ちろ」
イリスは悪役令嬢に相応しい、華やかで毒のある微笑みを浮かべた。