俺から、離れるな
――しまった。
この話はするつもりがなかったのに。
こういうところが、イリスが素で残念ということなのだろう。
思わず、小さなため息がこぼれる。
「……何の話だ?」
ヘンリーがじっとイリスを見つめてくる。
こうなると、誤魔化すのは難しい。
モレノの跡継ぎはこんな時、本当に面倒くさい。
「記憶を取り戻すのに、何かを引き換えにしているんじゃないかって話。でも、徐々に戻っているみたいだから、もう関係ないけど」
「ふうん?」
「カロリーナは闘争心みたいなものが薄れてた、って言ってたわ」
「……それで、イリスは何が代償だったんだ?」
やはり、そう来るか。
予想通りとはいえ、返答に困ってしまう。
「わ、わからないわ」
「……本当に?」
そう言って、ソファーから立ち上がると、イリスの隣に座る。
謎の行動に首を傾げたくなる。
何より、イリスに触れてしまうほど近くに座る意味がわからない。
「近いわよ」
これだけソファーにスペースがあるのに、何故こんな狭いところに密集しなければいけないのだ。
寒くてイリスで暖をとろうとしているのだろうか。
こちらとしてはくっつかれると恥ずかしくて暑いので、温暖化防止のためにも離れてほしい。
ぐいぐいとヘンリーを押し返そうとするのだが、さっぱり動かない。
真正面から力で押しても無駄なので、どうにかコツでも習得できると良いのだが。
少ない力で大きなものを動かすと考えて、てこの原理が頭に浮かぶ。
だが、この場合はどう応用すれば良いのだろう。
ヘンリーのお尻の下に板でも差し込めば良いのだろうか。
板の在処がわからないし、大人しく差し込ませてくれるかも疑問だ。
イリスは眉間に皺を寄せて考える。
その様子を見て、ヘンリーは苦笑した。
「……何なの?」
「いや、クレトが言っていた通りだな、と」
「クレト?」
「イリスが代償にしたのは、羞恥心じゃないのか?」
「う」
突然の正しい指摘に、思わず言葉に詰まる。
「図星?」
「な、なんで?」
「残念に応戦しようっていうのは、そもそもイリスが残念だからだとして。それでも、あのドレスや行動は普通の常識と羞恥心があったら、できないだろう」
さらりと失礼なことを言われているのは、気のせいだろうか。
「それに、クレトが最近イリスの様子がおかしいって言ってたぞ」
「おかしい?」
「好意を伝えたら反応するって。今まではどれだけストレートに伝えてもかすりもしなかったのに、って驚いてた。イリスじゃないみたいだって」
何だそれは。
クレトの中でイリスはどれだけ残念な女なのだ。
確かに、まったく気付きもせず、かすりもしていなかったわけだが。
ヘンリーは、ふくれるイリスを見て笑うと、手を伸ばして抱き寄せる。
突然、腕に包み込まれ、驚いたイリスは固まった。
「……本当だ」
ヘンリーの楽しそうな笑い声が響く。
――からかわれている。
恥ずかしいし、悔しい。
どうにかヘンリーから離れようと胸を手で押し返すが、びくともしない。
「――駄目だよ、離さない」
頭上から優しく囁かれて、限界が来た。
ヘンリーを押していた手から力が抜けて、イリスはうつむいた。
「……イリス?」
ヘンリーが腕の中を覗き込む。
唇を噛んで涙を目にためた姿を見て怯んだ隙に、イリスは立ち上がった。
――限界だ。
離れたい。
わかっていてからかうなんて、酷い。
泣きそうになりながら、涙をこぼすまいと堪えて扉へ向かう。
ドアノブに手をかけると、背後から包み込まれるように腕が伸び、手を重ねて止められた。
「待って、イリス」
「やだ。離して」
声を出した拍子に、涙がこぼれてヘンリーの腕を濡らした。
「……ごめん。調子に乗った」
ヘンリーが弱々しい声で謝罪する。
イリスがノブから手を離すと、そのまま背後からそっと抱きしめてきた。
「イリスが俺に反応してくれるのが嬉しくて。つい、やりすぎた。ごめん」
涙を拭うと、イリスはため息をついた。
「……まだ羞恥心のリハビリ中なのよ。しばらくは、私に近寄らないでくれる?」
「それは無理だな」
「何で」
「イリスが好きだから」
「――だから、それが!」
振り返って抗議しようとすると、今度は正面から抱きしめられた。
混乱と羞恥心で、上手く言葉が出ない。
「……なあ、イリス」
心なしかヘンリーの声が震えているのは、気のせいだろうか。
抱きしめられているので、イリスからは表情は窺えない。
「冗談でも、婚約解消なんて言わないでくれよ。おまえのためなら、いくらでも、何とでも戦ってやるから。だから――俺から、離れるな」
「……うん」
ヘンリーの胸に額を付けると、優しく頭を撫でられる。
抱きしめられたら、恥ずかしい。
なのに、その感触は不思議と心地良かった。
「――じゃあ、ヘンリーも残念な恰好にしましょうか!」
腕の中で顔を上げると、ヘンリーが思い切り顔をしかめた。
「はあ? 何でだよ。嫌だよ」
「一緒に戦ってくれるんでしょう?」
首を傾げて聞いてみるが、ヘンリーの表情は冴えないままだ。
「それは『碧眼の乙女』とやらと戦うってことだろう? なんで世間体や常識と戦わなきゃいけないんだ」
「――酷い。それじゃまるで、私が世間体も常識もかなぐり捨てた人間みたいじゃない」
「イリスはもうその道のカリスマなんだから、今更だろう」
「何よそれ、そんなに褒めたって、ヘンリーは残念になれないんですからね」
「だから、なれなくていいって」
「何よ。私だって恥ずかしいのに」
「はあ? 恥ずかしいなら、やめればいいだろう?」
「――嫌よ。残念で応戦しなきゃ、ヘンリーが危険かもしれないじゃない!」
そう叫んで、はたと気付く。
――これではまるで、ヘンリーが心配だ、好きだ、と叫んだようなものではないか。
恐る恐る見上げてみれば、ヘンリーは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。
……かと思えば、とろけるように、にやけ始めた。
「……そうか。イリスは俺が心配で、俺のために残念な恰好をしているのか」
「そ、それは」
「恥ずかしいのに、俺のためになら残念を復活させるのか。そうかそうか」
笑顔でうなずくヘンリーに、開いた口が塞がらない。
何でこんなことになってしまったのか。
イリスはただ、ヘンリーを助けたかっただけなのに。
これが素で残念の威力なのだろうか。
「――も、もういいわよ。ヘンリーの残念が足りなくても、知らないからね!」
ぷい、とそっぽを向くイリスを、ヘンリーは満面の笑みで眺めていた。