今度は、私の番
「何をしに来たのですか」
立ち上がったベアトリスは、警戒心むき出しで兄を睨む。
だが、それに気付いていないかのような穏やかさで、エミリオは微笑んだ。
「何って、酷いな。朝から行方知れずの妹を、迎えに来ただけだよ。それと、イリスに伝えたいことがあってね」
そう言ってイリスを見る笑顔は、見知った優しいエミリオそのものだ。
だからこそ、混乱するし、怖くもある。
「ベアトリスに聞いただろう? 俺も転生者だ。『碧眼の乙女』のファンディスクの情報を知っている。……そこでだ、イリス。ファンディスクの情報をあげるから――俺と婚約しないか」
「お兄様!」
ベアトリスが非難の声をあげるが、エミリオは意に介さずイリスを見つめている。
「……私には、婚約者がいます」
「知っているよ。でも、婚約なんて解消すれば良いだけだ。公爵家から望まれたのなら、十分に理由になるんじゃないかな」
……意味がわからない。
これは、イリスの知っているエミリオではない。
ともかく、断らなくては。
「私は……」
「――その方が、モレノの跡継ぎも安全だしね」
一瞬、呼吸ができなくなった。
ファンディスクに、ヘンリーが関わるということか。
しかも、まるで危険があるような言い方だ。
顔色を変えたイリスを見て、エミリオは満足そうに微笑んだ。
「俺と婚約する気になったら、ファンディスクの詳しい情報をあげる。あんまり時間はないかもしれないから、早めに決めてくれると嬉しいな」
楽しそうにそう言うと、ベアトリスを連れて帰って行く。
ベアトリスが話を聞いてはいけないと叫んでいたが、上手く返事ができなかった。
二人を応接室で見送ると、呆然としたままソファーに腰かけた。
考えなければいけないことはたくさんあるのに、何だか思考がまとまらない。
こんな時も、イリスは実に残念だ。
悲しくなるほどに。
「……イリスさん。何かあったんですか?」
いつの間にか部屋に入っていたクレトが、隣に腰かける。
「今、来ていたのって、この間の人達ですよね。バルレート公爵家の」
クレトは二人の諍いを目前で見ている。
ここで下手なことを言えば、不信感は増すばかりだろう。
どうにかしたかったが、上手い言葉が見つからない。
「うん。でも、大丈夫よ」
なけなしの力を振り絞って笑顔を返すと、クレトは眉を顰めた。
「……わかりました」
そう言うと、クレトはソファーから立ち上がる。
こうしてみると、随分と背が伸びている。
もうイリスを追い抜いているし、もっと大きくなるのだろう。
何だか弟に置いて行かれたようで、少し寂しくなった。
「イリスさんは、この後どうするんですか?」
「……疲れたから、少し休むわ」
「なら、俺は出かけますから、イリスさんは一人で外出しないでくださいね」
そう言うと、扉の向こうに消えていった。
「……何だか、ヘンリーみたいなことを言い出したわね」
もしかして、クレトにも面倒見の鬼の気質があるのかもしれない。
イリスは首を傾げると、ため息をついた。
そのまま自室に戻ると、ベッドに大の字になって転がった。
ダリアに見つかれば、伯爵令嬢にあるまじき振舞いだと怒られること必至だ。
まとまらない思考をクリアにするために、そのまま思いきり伸びをした。
『碧眼の乙女』のファンディスクは、実在する。
四作目で投獄されて謎の死を迎えたはずのイリスも、何故か関わっているらしい。
ヘンリーも関わっていて、危険な可能性がある。
そして、あまり時間はない。
今わかっているのは、このくらいだ。
「……一番問題なのは、ヘンリーが危険ということね」
どうにか安全策を練りたいが、シナリオがまったくわからないのでお手上げだ。
イリスはかつて残念で応戦してどうにか生き延びたが、それはシナリオがわかっていたからこそ。
やはり、シナリオの情報は欲しい。
となると、唯一の情報源であるエミリオに教えてもらうしかない。
――そのためには、ヘンリーとの婚約を解消する必要がある。
「羞恥心の欠片も必要のない話だわ。……ありがたいというか、残念というか」
イリスは自嘲の笑みを浮かべると、枕をぎゅっと抱きしめた。
そうして、これから自分がすることへの恐怖を、落ち着けようとする。
「今まで、私はヘンリーに助けられてきた。――今度は、私が助ける番だわ」
――ヘンリーを、『碧眼の乙女』から守る。
そのためになら、何でもしよう。
イリスは大きく深呼吸をすると、腹を括った。