ファンディスクがあるらしいです
翌日、かなり朝早くにベアトリスはやって来た。
イリスが応接室に向かうと、見慣れた優しい微笑みを向けてくれる。
昨日のことは、聞き間違いだったのかもしれない。
一縷の望みを抱きながら、イリスは人払いをした。
「……お兄様も、転生者なのです」
予想してはいたが、実際に聞くとやはり衝撃だ。
「『碧眼の乙女』をプレイしたことはないのですが、日本での姉妹がかなりのファンで、さんざん語られたそうで。なので、ファンディスクの内容は大体わかるみたいです」
「じゃあ、本当に存在するのね」
「そのようです。本編の記憶はないので、四作目が終わってファンディスクの時間軸になったタイミングで思い出したようですね」
「それで、内容は?」
「それが、詳しくは教えてくれないのです」
「なら、本当に転生者かどうかも、わからないんじゃない?」
「いえ。色々確認してみましたが、日本から転生したのは間違いなさそうです」
「そう。……でも、エミリオ様は私にファンディスクの話を聞きたくないか、って言ったわ。ベアトリスには教えていないのに、何故かしら」
すると、ベアトリスが大きなため息をつく。
公爵令嬢であり、淑やかな彼女には珍しいことだ。
「……イリスには寝耳に水でしょうけれど。お兄様は、もともとイリスを気に入っていました。ただ、可愛がっているという感じで、あくまでも私の友人として見ていました」
確かに、エミリオはよく挨拶もしてくれるし、何度も話をしている。
まさに良き兄という感じで、イリスだけでなくカロリーナやダニエラとも仲は良かった。
「それが、ちょうど四作目の終わりの舞踏会が過ぎた頃から、妙にイリスが来ないか聞いてくるようになりました。その時はそこまで気にしていなかったのですが、ある時夜会に参加したイリスを見たらしくて、隣にいた男は誰だと聞かれたのです」
ヘンリーと一緒の夜会なら、ドレスは残念ではなかったはずだ。
だからエミリオもイリスを判別できたのだろう。
残念ドレスでは、そうはいかなかったかもしれない。
「婚約予定のモレノ侯爵令息と伝えると、不快そうに眉を顰め、次いでにやりと笑いました。私は外面の良い一見穏やかなお兄様が、公爵家を継ぐに相応しく、それなりに下衆だと知っています。……嫌な予感がしました」
それなりに下衆って、何だ。
何だか凄い表現をしているが、ベアトリスの真剣な表情に、口をはさむことができない。
「イリスに何か用か聞くと、ファンディスクの通りなら云々と言っていたので話してみて転生者とわかりました。お兄様も、私達が転生者というのは知らなくて驚いていたのですが。『だったら話が早い。これからファンディスクのシナリオが始まるだろう。俺はイリスを助けて、俺のものにする』と」
「……どういうこと?」
「わかりません。意味がわからなかったのですが、お兄様は本気のようでした。もともとイリスは可愛いと思っていたけど、ファンディスクの悪役令嬢イリス・アラーナのルックスが最高に好みだと言っていました。だから、覚えているのだろう、と」
「好みって。私は四作目で死んでいるのに?」
亡霊役か回想シーンにでも登場するのだろうか。
それが好みと言われても、なかなか共感できない。
エミリオは随分と残念な趣味だな、と思うくらいだ。
「イリスにはヘンリー君がいるから、変なことを言わないようにと伝えたんです。そうしたら『大丈夫。どうせシナリオ通りになるから。俺はイリスが手に入れば良いよ』と言って。……それからは、何を聞いても答えてくれませんでした」
ベアトリスは一息ついて紅茶を飲むが、表情は曇ったままだ。
「ともかくイリスを狙っているのはわかりましたから、会わないようにしなければと思って伝言をしたのです」
公爵家に近付くな、手紙も出すな、という例の伝言か。
では、あれは改装のための注意喚起ではなかったのだ。
道理で、一向にバルレート公爵家の改装が始まらないわけだ。
「あれでも、公爵家次期当主です。私宛の手紙を見るなんて容易い。だから、手紙も止めたんです。万が一会いに来るなんて連絡があったら、私には知らせずにお兄様が会おうとしたでしょうから。……私がもっと早くに来れば良かったのですが、雨が降るし、お兄様にも見られていたので、動けませんでした」
「エミリオ様の言動だと、『私』もファンディスクに関わっていそうよね。何故かしら」
「わかりません。イリス、周囲に気を付けてください。お兄様にも。しばらくは公爵家に近付かないでください。手紙もやめておいた方が良いでしょう。何かわかれば、私が会いに来ますから」
イリスがうなずくと、ベアトリスは安堵の息をつく。
「本当は、ヘンリー君にも相談できると心強いのですが」
「え?」
何故ここで、ヘンリーの名前が出るのだろう。
「イリスも、もう知っているでしょう? モレノ侯爵家のこと」
「ええ、まあ」
そうか。
ベアトリスは公爵家の人間だから、モレノの家業を知っているのだ。
「表向きは一侯爵家ですが、陛下の覚えもめでたいし、影響力もあります。何より、情報力が凄いらしいですし、ヘンリー君自身も剣の腕前が一流と聞いています。調査にしても、イリスの護衛にしても、この上ないのですが」
だが、四人で話し合って、転生のことは誰にも言わないことにしている。
四作すべて、それで乗り越えてきたのだ。
説明も難しいし、信じてもらえるとも思えないし、誰がどう関わるのかもわからない。
下手に巻き込んで事態を悪化させてしまうのが怖かった。
「……とりあえず、もう少し考えてみましょう」
「そうね」
うなずいて紅茶に口をつける。
ぬるくなった紅茶は、いつもよりも味が薄い気がした。
ベアトリスが帰ろうと立ち上がると同時に、扉が開く。
部屋に入って来た黒髪の青年の姿に、イリスとベアトリスの体が強張った。
「ベアトリス、俺に気付かれたくなかったら、馬車を使っちゃ駄目だろう? まあ、おまえの足じゃ、往復を一人で歩くのは難しいだろうが。――イリス、おはよう」
エミリオの灰色の瞳と笑顔に恐怖を感じたのは、これが初めてだった。